「ご臨終(りんじゅう)です」
脈が途絶えてその人が亡くなったことがはっきりした時に、お医者さんから告げられるのがこの言葉です。
ご法事の時によく読まれる『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』というお経に、「臨命終時(りんみょうじゅうじ)」という言葉があります。「命終わる時に臨みて」と訓読します。「臨む」は、「直面する」「であう」という意味です。単なる「終わり」ではありません。終わりに「直面する」「であう」のです。
「命の終わりに臨んで」と「命が終わって」。この二つは意味が大きく違うように思うのです。私たちはなぜ、人が亡くなられたということを「臨終」、「命の終わりに臨んで」という言葉で表現してきたのでしょうか。
先日読んだ本の「命を終えるときには、一人で棺桶に入れません。誰もが、最後には他人のお世話になるはずです」(西川勝『老いと暮らすヒント』)の言葉に思わず頷かされました。老いとともに、人間はどんどん自分で出来ることがなくなっていきます。そして人生の最後には自分で棺桶に入ることもできなくなる。
人間は、誰もがいずれ命を終えていく存在です。死に近づいていくにつれて、どんどん自分で出来ることがなくなっていきます。でも、それははたして嘆くべきことなのでしょうか。
自分一人で生きてきた。自分の力で生きてきた。その思いが果てて、生かされている私に気づいていく。その気づきの中に開かれてくる人生というものがある。
近しい人の「臨終」に、その人の人生を通して、いま生かされている私自身を教えられてきた営みがご葬儀、あるいは中陰(ちゅういん)という仏事なのではないかと思います。「臨終」は、その仏事のはじまりなのです。
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
仏教語 2026 06