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本願寺第8代宗主である蓮如(れんにょ/1415~1499)とその門弟たちの言行がまとめられた『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』には、浄土真宗の教えや心得が平易な言葉でいきいきと語られています。
標題の言葉は、「歩いて行く先の向こうばかり見て、自分の足元を見ないでいると、踏み誤るであろう」という、平易な教訓のような言葉です。しかし、この言葉には続けて、「人の上ばかりにて、わがみのうえのことをたしなまずは、一大事たるべき」とあります。他人のことばかりを見て、自分自身のことを省み慎まなければ、重大なことになるだろうというものです。仏法を聞く上で、他者の言動や教えを聞く姿勢を穿鑿(せんさく)したりして、自分自身が問題とならないありようを誡(いまし)めるものと言えます。つまり、標題の言葉は、そのことを言い表すたとえとして語られたものでした。
このたとえは現代社会を生きる私たちにとって、たとえ以上の大きな問いかけの意味があります。私たちは、豊かで便利な社会の実現を「行くさきむかい」と見定め、ひたすら走り続けてきました。そこに芽生えた飽くなき欲望は、大量消費による環境破壊や格差社会を生みました。また合理化の名のもとに、自分にとって都合の悪いもの、煩(わずら)わしいもの―それが人間関係であっても―を排除することによって、かつてない便利さと同時に、言い知れぬ孤独感や虚しさが同居する社会が生まれました。
今こそ私たちが手に入れたものと、その引き換えに失ったものの大きさを考える必要があるはずです。にもかかわらず私たちは、これまでの歩みに根本的な疑問を持つことがありません。また、何をよりどころとして生き、何を本当の願いとするものとしてあるのか、そのことから目を背けているようにさえ思われます。この「わがみ」こそが社会を生み出している一人に他ならないにもかかわらず、自分自身を棚上げしてしまっていると言わなくてはなりません。
これからの社会はAIの進化などによって、情報化、効率化の流れが益々加速していくでしょう。そして、その流れについていくために、「行くさきむかい」だけをみて立ち止まることさえ許されない社会が現実のものとなりつつあります。この蓮如の言葉は、仏法によって照らし出される、「わがみ」と向き合うことの大切さが説かれたものであると同時に、現代を生きる私たちに、私自身の本当の願い、私たちが進むべき道とは何かを一人一人に問いかけるものと言えます。
『蓮如上人御一代記聞書』
大谷大学HP「きょうのことば」
2025年7月より
教え 2026 11
「名号(みょうごう)」とは仏さま(阿弥陀(あみだ)さま)のお名前を表した言葉であり、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」は「六字の名号」、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」は「十字の名号」と言われています。
今回は、この「名号」という言葉について考えてみたいと思います。
「名」の字は、辺りが暗くなった「夕方(夕)」に自分が誰であるかを相手に伝えるために自分の名前を名のったというのが成り立ちです。
「号」の字は、口の下の部分は曲がったものをあらわし、「声(口)が真っ直ぐ伸びないで、緊張のあまり曲がってしまう、痛ましいさけびの意味」というのが成り立ちです。
「名」も「号」も、元々は書かれた文字ではなく、声として出された叫び、呼びかけという意味を持つ言葉であり、阿弥陀仏さま自身の名のりが名号ということになります。もっと言えば、その名のりとともに私たちに対する仏さまの願いが現れ出た、そのダイナミックな成り立ちが表現された言葉なのです。
親鸞聖人は、その著作である『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』において、この「名号」について、次のようにおっしゃっています。
「号」は、仏になられた後のお名前です。「名」は、まだ仏になられる前のお名前です。この仏さまの尊いお名前は、はかることもできず、説き尽くすこともできず、考え及ぶこともできない、あらゆる衆生(しゅじょう ※)をこの上もない覚(さと)りに至らせる大いなる慈悲の誓いのお名前なのです。(『真宗聖典 第二版』671頁・取意)
仏になられる前から私のことを呼び続け、仏になられても叫び続けておられるのが「名号」です。私たちが亡き人を想いながら「南無阿弥陀仏」と称(とな)えることには、そういう呼びかけ、叫びを聞いていくという意味があるのでしょう。そう考えると、「南無阿弥陀仏」の名号は、私たちの思いを超えて、私たちの人生をずっと支え続けてくれている「一生涯の宝物」と言えるのかもしれません。
- 衆生
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生きとし生けるもの
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
仏教語 2026 11
悲しいかな、人間は人と比べて自分を自慢するばかりでなく、人と比べて自分を劣っていると考え、卑下(ひげ)する生き物です。人との比較だけでなく、過去の自分と比べて喜んだり嘆(なげ)いたり、自分の未来をいろいろ思い描いて、期待したり、不安をおぼえたりもします。私たちの社会には、人に上下や優劣をつけるものさし、価値観が溢れていますから、どうしてもその価値基準のなかに相対的に自分を位置づけ、他者と比べてしまうのです。私たちの苦悩は、こうした比較から多く生まれてきます。この比較するこころが実は煩悩(ぼんのう)なのです。比較して、比較して、自分を、他者を、ありのままに見ることができない。仏教からすると、私たちが苦しむのは、煩悩によって自分の真実の姿、<この上なく尊い存在>であることを見失っているからなのです。仏道とは、この煩悩によって見失う存在の意義を見つめていくことであると思います。
今後、AI(人工知能)が発展していけば私たちの生活のすみずみまでAIに支えられたものになるでしょう。その生活がどのようなものであるのか想像がつきません。しかし、その生活の中で自分自身の存在の意義を見失っていくのならば、便利で快適であったとしても、決して生きやすくなるのではないのでしょう。社会は常に変化し、人間の生活も変わっていきます。そのなかで、一人ひとりの存在の意義を見つめつづけることが、大切というよりも、生きていく上で不可欠のことであると思います。
鶴見 晃氏
同朋大学教授
『仏教のミカタ 仏教から現代を考える31のテーマ』
(東本願寺出版)より
法話 2026 11
私たちは人間に生まれました。そこにはどんな意味があるのでしょうか。また、この私は何のためにこの世に生まれてきたのでしょうか。
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルさんは、「実存は本質に先立つ」という言葉を残しています。言い換えると、私たちは何のために生まれてきたのか(=本質)ということに先立って、つまりそれが決まる前に、この世に生まれてきた(=実存)ということです。
身近にあるもので考えてみましょう。例えば消しゴムは何のためにあるのでしょうか。いろいろな考えがあるかと思いますが、一番の目的(=本質)は字を消すためです。でも、消しゴムはこの世に誕生してから、字を消すという役割を与えられたわけではありません。目的(=本質)が先にあって、その目的を果たす物として作り出された(=実存)のです。
ここまでみてきてわかるように、人間が作り出すものはすべて「実存に先立って本質がある」、つまり「ある目的のために生み出されてきた」と言えるのです。
しかし、人間はその逆です。サルトルさんの言うように「実存は本質に先立つ」、言い換えると「何のためにという問いに答えが与えられる前に生まれてきた」のが私たちです。
人間だけではありません。他の動物も植物も、また山や海といった自然はすべて、何のために生まれてきたのかということがはっきりする前に生まれてきたのではないでしょうか。ということは、私たちが「いったい何のために生まれてきたのだろうか」という問いを持つのは当然のことなのかもしれません。いや、持たなければならない大切な問いなのではないでしょうか。
なかなか答えの見つからない問いです。でも、「問いを持って生きる」ということが大切なのです。
ジャン=ポール・サルトル
哲学者(フランス)
真宗大谷派学校連合会
『生まれる 生きる 生かされる』
(東本願寺出版)より
著名人 2026 11