2026年水無月(6月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 誰でも苦しい事はいやなものです。できれば避けたいと思います。近年は特に老・病・死は身近ではなくなってきているように思います。お年寄りは老人施設に入り、病気になれば病院に、死はできるだけ身内の者だけでそっとお葬式、お骨は散骨と言って空や海に撒き、樹木葬と言って木の根元にお骨を納めたり、どうでしょうか老病死は身近ですか。どんどん老苦も病苦もその延長にある死も、見えにくくなってきていませんか。特に子どもたちには見えてないのではないでしょうか。まるで苦を見せないようにしているかのようです。手に入れたいものを買い与え、ひもじい思いをできるだけさせたくないと、親は頑張って働き、子どもは子どもで友達と遊ぶにもそれぞれに塾や習い事をしているので、遊ぶにもアポを取らないといけないとか、お互いに気を遣って、できるだけ苦にならないように生活をしています。それで苦を遠ざけることができれば、良いのでしょうが、人生はそう都合良くならないことを、誰もが知っていることでしょう。都合の良いときもあるでしょうが、むしろ自分の都合にあわないことの方が多い。
 「苦」こそ人生とはよく言ったものです。苦を避けるのではなく私に与えられた時間、環境を通して「苦」を大切にする歩みをしたいものです。

『ブッダの教え』
三品 正親氏
真宗大谷派 蓮生寺前住職(滋賀県)

『花すみれ』2023年4月(大谷婦人会)より
教え 2026 06

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「ご臨終(りんじゅう)です」
 脈が途絶えてその人が亡くなったことがはっきりした時に、お医者さんから告げられるのがこの言葉です。
 ご法事の時によく読まれる『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』というお経に、「臨命終時(りんみょうじゅうじ)」という言葉があります。「命終わる時に臨みて」と訓読します。「臨む」は、「直面する」「であう」という意味です。単なる「終わり」ではありません。終わりに「直面する」「であう」のです。
 「命の終わりに臨んで」と「命が終わって」。この二つは意味が大きく違うように思うのです。私たちはなぜ、人が亡くなられたということを「臨終」、「命の終わりに臨んで」という言葉で表現してきたのでしょうか。

 先日読んだ本の「命を終えるときには、一人で棺桶に入れません。誰もが、最後には他人のお世話になるはずです」(西川勝『老いと暮らすヒント』)の言葉に思わず頷かされました。老いとともに、人間はどんどん自分で出来ることがなくなっていきます。そして人生の最後には自分で棺桶に入ることもできなくなる。
 人間は、誰もがいずれ命を終えていく存在です。死に近づいていくにつれて、どんどん自分で出来ることがなくなっていきます。でも、それははたして嘆くべきことなのでしょうか。
 自分一人で生きてきた。自分の力で生きてきた。その思いが果てて、生かされている私に気づいていく。その気づきの中に開かれてくる人生というものがある。
 近しい人の「臨終」に、その人の人生を通して、いま生かされている私自身を教えられてきた営みがご葬儀、あるいは中陰(ちゅういん)という仏事なのではないかと思います。「臨終」は、その仏事のはじまりなのです。

吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長

仏教語 2026 06

僧侶の法話

言の葉カード

 私たちは、食事の時に「いただきます」、「ごちそうさま」と言います。あれは、だれに向かって言っているのでしょう。
 私たちが食事をするということは、他のいのちをもらって自分のいのちをつないでいくということです。
 しかし、私たちの食べ物になってくれた動物や植物は、決してそのために生まれてきたわけではないはずです。
 合掌し「いただきます」、「ごちそうさま」と言う私たちの姿勢の中には、他の「いのち」をいただいて生きていかざるを得ないという現実があります。ですから、そこにはいただいたいのちに対する感謝と謝罪、また、畏敬(いけい)と謙譲の気持ちがこめられているのです。
 さらには、「ごちそうさま」の「馳走(ちそう)」の由来は、「大切な人をもてなすために奔走(ほんそう)する」という意味です。
 お米や野菜、肉や魚を私たちの食卓に届けるために、実に多くの人々が、「いのち」への痛みを感じながら、日々さまざまな苦労を重ねてくださっています。

 「食べる」ことと同じように、私たちは生まれながらに、いつも「明るく楽しいもの」や、「目に見える豊かさ」を追い求めて生きています。それを手に入れることが人生の目的だと考える人もきっと多いことでしょう。
 しかし、もしかすると、その「明るく楽しいもの」や「豊かさ」は、だれかの悲しみの上に成り立っているものかもしれない…そんなことを考えさせられました。
 そして、その「悲しみ」に気づくことで、人間としてより深く生きていくことにつながるのではないでしょうか。

食前・食後のことば

真宗大谷派学校連合会
『生まれる 生きる 生かされる』
(東本願寺出版)より
法話 2026 06

著名人の言葉

言の葉カード

 我々は、たとえば車があるのかないのか、どんな車に乗っているのか、家が大きいのか小さいのか…、そういう自分の持ち物の豊富さを、豊かさの象徴のように感じているのです。ところが、シューマッハーは、豊かさは、「止まれ、もう十分だ」と言えるところにあるのだというわけです。つまり、どれだけ人が羨(うらや)ましがるほどたくさんの物を持っていても、まだ足りない、まだ欲しいと、こう思って生きている人は、実は貧しいのだということですね。たとえば、百万円のお金を持っていても、まだ足りない、もっともっとという人は、貧しいということです。逆に、たとえ一万円であっても、これで十分だといえる人は、非常に豊かだということです。だから、豊かさとは、量から質へというか、その人の生活姿勢の内容の問題であるということになります。どうでしょうか。そのことが、我々のところにスーッと入ってくるかどうかです。
 我々自身が相対有限なものだということ、我々自身が絶対なものでないということ、そのことが持つ厳粛な意味ということを思います。私たちは、いろいろなことを思ったり、いろいろなことを言ったりしていますが、それは、ある限られた状況の中で意味を持つことであって、また、違うところへ行ったら、その意味するところが変わるということがあります
 背が高いとか低いとかということもそうでしょう。高い人は、背をかがめなければならない悩みもあるのです。だから、我々が相対有限であるということ、生まれたからには死ぬということ、それは非常に大事なことなのです。そのことが大事だということは、相対有限であるということの持っている意味を本当に知らないと、我々は、さまざまな尺度で振り回されてしまうのではないかと思うのです
 豊かさとは、量の問題ではないのだということです。つまり、自分が自分であることに、これでよしと言えるかどうかという問題だということです。

シューマッハー
経済学者(イギリス)

中川 皓三郎氏
帯広大谷短期大学元学長
『ただ念仏せよ ―絶望を超える道―』
(東本願寺出版)より
著名人 2026 06