「有無同然(うむどうねん)(『真宗聖典 第二版』62頁)」という言葉は、「ある/ないというのは、結局同じことである」ということです。「あると言っても、ないと言っても、結局そう変わりがないのだ」というモノの見方がございます。私どもにとっては「ある」と「ない」とは大違いでして、「ないよりはある方が良いに決まっている」とばかり思い込んでおります。ところが、仏さまは娑婆(しゃば ※)世界の浅ましいありさまを次から次へと述べられて、そして「有無同然」ということをおっしゃいます。結局、モノの「ある/なし」が人の幸福であるか不幸であるかを左右する鍵ではないとおっしゃるわけです。
そういう教えに接しますと、経典というのは仏様が娑婆をどう見ているのかについての視点を教えてくださっているのだと感じます。なぜ私たちはお聖教(しょうぎょう)に親しまなければならないのか? 経典に向かう必要があるのか? 日頃、私どもは「自分の思い」のみで周りを見ております。それが正しいのか間違っているのか分かりませんが、長い間自分なりになじんだ方法や生き様で、ずっと過ごしてきた見方によって、すべての物事を観察して判断しています。
ところが仏教と申しますのは、「目覚めた人の教え」という意味です。「仏」というのは目覚めた人・覚者(かくしゃ)のことです。何に目覚めておられるのか。真理、物事のありのままの事実ですね。私どもは物事を見る場合、必ず自分の色眼鏡(自分の都合)で必ず見ております。ところが、それを離れて見るということは私どもにはできません。自分なりの価値観・モノの見方で世間を見ることしかできません。しかし、長い間慣れ親しんでいるモノの見方の他にある見方があるのだということを、時には衝撃的に教えてくださるのが経典だと思われます。何気なしに棒読みしていたものが、ある時にその意味を聞かされてみますと「あぁ、そうか。こういうことを昔からいってらっしゃるのか」と改めて気づかされることがございます。娑婆という迷いの世界をどのようにご覧になっているのかについての描写が経典の中身ではないかと感じるようになりました。
- 娑婆
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人間の住む世界。この世のこと。
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』
坂東 性純氏
真宗大谷派 坂東報恩寺前住職(東京都)
『はたらく仏さま』
(東京教区教化委員会)より
教え 2026 05
仕事が終われば上司の愚痴を肴(さかな)に杯を酌み交わす、なんていう人も多いかもしれません。できるだけ言わないようにと心がけても、ついつい口をついて出てくるのが愚痴ですね。これまで愚痴を言ったことはありません、という人なんていないのではないでしょうか。
実はこの「愚痴」という言葉は、「貪欲(とんよく)」、「瞋恚(しんに)」とならんで、私たちの煩悩(ぼんのう)のなかでももっとも根本的なものをあらわす仏教語なのです。
「貪欲」とは、必要以上のものをむさぼり求めて際限がないこと。「瞋恚」は炎のように燃え上がる怒りや憎しみです。これは、人のことだと目に見えてわかりやすいですね。ほんとうは自分のことなんですが…。
「愚痴」は、「無明(むみょう)」とも表現され、仏の教えを知らず、仏の智慧(ちえ ※)に暗いことです。「明」は仏の教え、仏の智慧をあらわします。「明(教え・智慧)」が無いから「無明」です。また、「明」が無いので、「無明」は「闇」という言葉でも表現されます。
この「闇(無明)」について、宮城 顗(みやぎ しずか ※)先生が次のように教えてくださっています。
ほんとうのいちばん深い闇は、わかっているという思いです。なんでもわかったことにしてしまっている。わかっているつもりでいる。わかったつもりでいるということがいちばんの闇なのです。
(『正信念仏偈講義』第一巻 70頁)
「明(教え・智慧)が無い」ということは、何かを知らないということではなく、わかっていると思い込み、聞く耳を持たないということです。それが私たちの姿なのです。
愚痴をこぼすことしか知らない私たちは、だからこそ「教えを聞く」(その場に身を置く)ことによって、そういう自分に気づかされていく必要があるのです。
- 智慧
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自分では気づくことのできない自らの姿を知らしめる仏のはたらき。
- 宮城 顗(1931~2008)
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真宗大谷派の僧侶。真宗大谷派本福寺前住職。九州大谷短期大学名誉教授。
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
仏教語 2026 05
仏さまというのは、「目覚めた人」という意味です。何に目覚めたかといいますと、法に目が覚めた、もっと正確に言えば、法に眼を開かれたということです。その開かれた法とは、「色は匂へど散りぬるを」という歌にもあるように、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」ということです。
いくらきれいに花が咲いていても、いつまでも咲いていることはない。必ず散る時がある。それは花だけでなく、どんなものも無常である、「有為(うい)の奥山今日越えて、浅き夢見し酔いもせず」と続いていますが、我々は幸せの夢を見ているわけです。「思うようになれたらいい」「都合よく生きることができたらいい」という夢を見ているのです。都合どおりにいかない人生において、それを思いどおりにしたいと生きていることが「浅き夢」であり、この事実に眼を覚ました方を覚者(かくしゃ)というのです。亡くなった人は、その事実を示してくれるのです。
人間は都合のよいことが好きです。それでこちらがお祈りしたり、お願いしたりすると、都合よくしてくださるという存在にひかれるものです。「鬼は外、福は内」というのも、それなのです。都合の悪いことはどこかに行って、福だけが舞い込んで来るようにと、何やら私たちにそういう事をしてくださるお方がいらっしゃると、それを信仰する。
仏さまの教えは、その夢から覚める教えです。「思うようになる」という夢、「何とかすれば都合よくなるだろう」という夢、そういった夢から覚めなければ、この人生は渡れないぞ、と、いろんな不都合な事を乗り越えて亡くなられた人が示してくださるのです。それは、最初に申しました「諸行無常」という仏さまが目覚められた法です。先立った人をご縁として、法に遇(あ)わせていただくという意味がそこにあるのです。
いろは歌
片山 寛隆氏
真宗大谷派 相願寺住職(三重県)
『大きい字の法話集2』
(東本願寺出版)より
法話 2026 05
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「目は何のためにある?」と聞かれたら、どう答えますか?「それは、ものを見るためでしょう」ほとんどの人はそう答えますよね。私たちの常識では、〈見る〉ことによって外界を〈知る〉ことが目の本質と考えられ、〈涙を流す〉というはたらきが忘れられがちです。みなさんは唐招提寺(とうしょうだいじ)にある鑑真和上(がんじんわじょう)像をご存知でしょうか。俳人芭蕉(ばしょう)は、目の見えないその慈悲(じひ)の眼差しに心打たれ、「若葉して御目の雫ぬぐはばや」と詠んでいます。芭蕉がそこに見た鑑真の〈涙〉は、悲しみや喜びとともに人間に働き出る智慧(ちえ ※)を表し、「ほんとうに大事なのは知覚ではなく、智慧のはたらきだ」ということを私たちに知らせてくれるのではないでしょうか。
フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)も、「目の本質的な役割は〈見る〉ことではなく、〈涙を流す〉ことだ」と言います。デリダは、このように〈涙〉の意味を重く受けとめています。それは〈視覚〉を目の本質と考えるような常識に潜む差別性に対する批判でした。プラトンの有名な「洞窟の比喩」をはじめ、西洋の哲学ではずっと、ものを〈見る〉ことが真理を〈知る〉ことの隠喩(メタファー)として使われてきました。視覚に特権的な地位を与えてきたのです。しかし、ものを〈見る〉ことは真理を〈知る〉ことと同じではありません。それを安易に同一だとすることは、〈視覚〉に障害のある人は真理に暗いというようなひどい差別的観念を生み出すことにもなります。西洋の理性中心主義が生み出しかねない、こうした差別と排除の論理を、デリダは鋭く抉(えぐ)り出しているのです。
ジャック・デリダは、1930年、当時フランスの植民地だったアルジェリアで、ユダヤ系の家庭に生まれました。旧植民地で生まれたユダヤ系フランス人という、二重三重の差別構造を背負って哲学者となったデリダは、〈脱構築〉という独自の方法を駆使しながら、西洋哲学の背後に潜むロゴス(理性)中心主義、男性中心主義、ヨーロッパ中心主義を根底から揺さぶるような思考を展開しました。晩年には行動する知識人として、人種差別や植民地主義を告発する活動に積極的に取り組みましたが、それは周縁に位置づけられ、無視され虐げられるものに共感した〈涙〉の行動だったといえます。
私たちの〈眼差し〉が〈涙〉に覆われるとき、〈視覚〉がとらえる表層の知の奥に、深く綾なされた意味の世界が開けます。埋もれていた文脈に光りがあたり、新たな意味に気づかされるのです。そこには、無数の〈他者〉とのつながりが顕わになります。だから人間を学ぼうとするものは、決してこの〈涙〉を忘れてはならない。デリダは、私たちにそう訴えているようです。
- 智慧
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自分では気づくことのできない自らの姿を知らしめる仏のはたらき。
ジャック・デリダ
哲学者(フランス)
大谷大学HP「きょうのことば」2006年4月より
著名人 2026 05