仏伝の中には、誕生したばかりの釈尊(しゃくそん/お釈迦さま)を大きな蓮華(れんげ)が受けとめたと表現したものや、誕生直後に歩いたその足跡に蓮華が開いたと語るものなどがあります。
仏がおられる場を「仏座(ぶつざ)」と言い、「蓮華の台(うてな)」とも言うように、その座は蓮華で表されています。つまり、蓮華によって、仏の正覚(しょうがく)(覚り/さとり)を表現していると言えます。ですから、釈尊誕生の時に蓮華が咲きほこったのは、やがて釈尊が蓮華を座とする仏に成ることを象徴しているのでしょう。そして、仏の世界は「浄土」と称され、その世界の清浄であることが、また色とりどりの美しい蓮華をもって描写されています。このように、蓮華は仏の正覚とその清浄さのシンボルとして表現されているのです。
『維摩経(ゆいまきょう)』という経典(きょうてん)には、「高原の陸地(ろくじ)には、蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)に、いまし蓮華を生ず」と説かれています。蓮華が群生する場所は泥の池であり、清らかな水には見えません。しかし、その泥の池から美しい花を咲かせるのが蓮華の特徴です。それを喩(たと)えに、煩悩(ぼんのう)の泥の中にある衆生(しゅじょう/生きとし生けるもの)にこそ正覚の心が生じる、ということの意味を伝えようとしているのです。言うなれば、正覚は、衆生と無関係なものではなく、まさに煩悩の泥の中、すなわち穢土(えど)とされる、この衆生世界で得られるところに大切な意味があるということです。
泥の池に美しい花が咲くことは、矛盾のようにも感じられます。しかし、そのような感覚を超え、淤泥の中だからこそ美しい花を咲かせるのが蓮華です。『維摩経』では、その特徴を的確にとらえ、煩悩の中にあってこそ正覚が得られるという矛盾の超越を、「淤泥華」によって表しています。正覚の花が開くのは、まさにこの穢土においてなのです。
『維摩経』
松下 俊英氏
真宗大谷派 恩善寺住職(石川県)
『仏教ゆかりの植物図鑑』
(東本願寺出版)より
教え 2026 07
仏教の言葉である「憶念(おくねん)」という言葉、あまり聞き馴染みがないかもしれませんが、漢字を分解してみると、とても深いメッセージが隠されています。
まず「念」という字。これは「今」と「心」から成り立っています。「今」は「含」の意味で、「心にしっかりと含んで忘れない」という意味があります。
次に「憶」の字です。部首の「りっしんべん」は心を表し、つくりの「意」は「音」と「心」に分けられます。この「音」は、実はまだ言葉になる前の、心の奥底にある「声なき思い」のことです。その「言葉にならない大切な思い」を、自分の内側でじっくりと感じ、忘れないこと。また、かつて受け取った大切な記憶をふとした瞬間に思い出すこと。それが「憶」という字が持つ意味です。
この「言葉にならない大切な思い」を、阿弥陀(あみだ)さまの「本願(あなたを見捨てないという願い)」として受け取ってみてはどうでしょうか。
「あなたを見捨てない」という阿弥陀さまの願いが、私の中にしっかり刻まれていて、どんな時でもふっと思い出される。
親鸞聖人は、『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』の中でこう教えてくださっています。
憶念というのは、信心をいただいた人が、もう何も疑うことなく、阿弥陀さまの願いをいつも絶え間なく思い出し続けることなのです。
(『真宗聖典 第二版』676頁・取意)
私たちは日々、いろいろなことに振り回されて、つい大切なことを忘れがちです。けれど、お念仏を称(とな)える暮らしの中で、「あぁ、そうだった」と阿弥陀さまの願いに立ち返ることができる。
金子大榮師(かねこだいえい ※)は、次のように述べられます。
しかれば憶念の心とは記憶していて忘れないことに違いありません。しかるに記憶といえば私が覚えているようでありますがそうではありません。記憶が私を支えているのではありませんか。
(『和讃日日 続』175頁)
「自分が覚えている」というよりは、「誰かの願いや記憶の中に、今の自分が生かされている」。阿弥陀さまの前で手を合わせ、お念仏を称えることを通して、私たちはその大きな支えに気づかされるのです。
「憶念」とは、単なる暗記ではなく、私を包み込んでくれている大きな願いを、今この瞬間に感じ直すこと。それが「憶念」という言葉が私たちに教えてくれていることではないでしょうか。
- 金子大榮
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1881~1976。真宗大谷派僧侶
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
仏教語 2026 07
人間は思い込みの激しい生き物です。また、わからない、できないということを不安に感じ、わかりたい、できるようになりたいという欲求を強く持っています。それ自体は悪いことではありません。そういう思いが人を成長させます。
しかし、なかなか理解できないことや簡単にはできそうにないことに出会うと、身につくまで学ぶという意欲が失われ、その途中で「まあ、いいか」となってしまうことがよくあります。そんな時、知らず知らずのうちに、わかったつもり、できるふりをする私が誕生してしまいます。
本当のことがわからないと、本当でないものを本当にする。
安田理深『信仰についての対話I』(大法輪閣)
この言葉にあるように、「よくわからないけど、こういうことにしておこう」ということがありませんか。わからないままの自分で居続けることができず、わかったことにして次に進む。そしてそれがいつのまにか積み重なり、ほんとうは何もわかっていないのにわかったふりをして、ごまかして生きている。そんなことはないでしょうか。
「無明(むみょう)」という言葉があります。「真理に暗い、ほんとうのことに出会っていない状態」のことです。しかし、私たちはわかっていないということが、わかっていないのです。問題なのは、わかっていないのにわかったつもりで生きている在り方で、それが無明なのです。
安田 理深氏
真宗大谷派学校連合会
『生まれる 生きる 生かされる』
(東本願寺出版)より
法話 2026 07
ある日いっぴきのでんでんむしが、自分の殻(から)の中に「かなしみ」がいっぱいつまっていることに気がつき、おともだちのでんでんむしのところへ行ってなげき話すと、おともだちのでんでんむしは「あなたばかりではありません。わたしの せなかにも かなしみは いっぱいです」と言います。どのおともだちに話しても先のおともだちと全く同じことを言います。とうとうでんでんむしは「かなしみはだれでももっているのだ」と気がつき、なげくのをやめました。この童話は新美南吉(にいみ なんきち)が22歳の時に制作したものです。
かなしみは小さく少ない方がよい、早く忘れた方がよいと思われがちです。かなしみは、つらさ、苦しさ、いたみ、虚しさをともないます。かなしみは澱(おり)のように心身の奥深いところに沈んで留(とど)まります。かなしみは人と比べることも、とって変わることもできません。一人ひとりが背負(せお)って生きていかなければならないのでしょう。
ほとけさまは、かなしみは人間の真実なのだと説かれ、そんな人間の存在をそのままつつみ込んで必ず救うとお約束してくださっています。
『でんでんむしのかなしみ』
新美 南吉氏
児童文学作家
前田 素子氏
真宗大谷派 專龍寺(島根県)
真宗大谷派京都教区HP
今月のことば(2026年3月)より
著名人 2026 07