2026年長月(9月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 親鸞(1173~1262)は、主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に、「人倫(じんりん)の嘲(あざけり)を恥じず」(「化身土巻」)、さらには「人倫の哢言(ろうげん)を恥じず」(「信巻」)と繰り返し述べています。
 この言葉は、「たとえ多くの人から、嘲りを受けようとも、恥じることはありません」という強い決意の言葉です。ここで嘲りとは当時の仏教界や社会のものの見方、つまり世間を支配する常識や「空気」といったものに疑問をもち、自分が本当に大切だと思う道を歩むことによって受ける批判をいいます。
 親鸞が四十二歳の時、天候不順による干ばつなどで飢饉(ききん)が発生した中で、衆生(しゅじょう ※)救済の為に、浄土三部経という大部な経典を千回読誦(どくじゅ)しようと決心しました。しかし四、五日経って、念仏以外に何の不足があってお経を読誦しているのだと思い返し、中断します。その当時の仏教界では雨乞いや国土の安泰を願い祈祷(きとう)を行うことは当然のことでした。人の為、社会の為に少しでも役に立ちたい、苦しむ民衆の期待にこたえたいと思う僧侶なら誰しもが行ったはずです。しかし、親鸞はそこに本当の仏教があるのかという疑問をもち、人間はいつか病に倒れ、老い、そして死ぬ。その事実から目を逸らし、少しの寿命を延ばすためや、自身の欲望や願望を満たすため、ましてや雨を降らせるために仏教があるのではない。生老病死(しょうろうびょうし)の現実を、その苦悩の中に在って、その一度限りのいのちを生き生きと生き抜く力と勇気をたまわるものではなかったのかと。
 こうしたエピソードに限らず親鸞の切り開こうとした道は、その当時の時代社会のなかで、容易に受け入れられるものではありませんでした。親鸞は仏教界の常識や社会を覆う「空気」にどうしても身を任すことができず、自分自身と真向かいになり、本当にこれでいいのかと、自身の内に生じた違和感を持ち続け、問い続けたのです。その親鸞の愚直なまでの歩みは、現代を生きる私たちにも、「あなたはそれでいいのですか」という問いを投げかけるものであると同時に、勇気を与えてくれます。
 周りの評価や流行が気になり、自分自身の思いや意見を表現することに躊躇(ちゅうちょ)していないでしょうか。社会の「空気」を忖度(そんたく)してしまい、周りに合わせようと努力して疲れ切っていないでしょうか。自分の内にある違和感に正直になり、立ち止まることで、「空気を読め」と言われたり、「ノリが悪い」と批判されるかもしれません。しかし、自己を見失い流され続ける虚しさに気づき、立ち止まることへの不安の中で、自分自身を取り戻す勇気こそが求められているのではないでしょうか。

衆生
生きとし生けるもの

『教行信証』(親鸞)

大谷大学HP「きょうのことば」
2025年11月
より
教え 2026 09

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「談合」といえば、現代においては、「事業者が競争を不当に避ける不正行為」というネガティブな専門用語として定着しています。けれども、この言葉の元々の意味は、文字通り、「談(かたり)」「合(あう)」、つまり「顔を合わせて話し合う」ことです。
 浄土真宗中興(ちゅうこう)の祖とされる蓮如上人(れんにょしょうにん ※)は、『御文』(おふみ)というお手紙のなかで、仏法は誰かと一緒にたずねなさいということを次のようにおっしゃっています。

 仏法が何なのかということを、障子や垣根ごしに聞きかじって、たとえ心の内で「そういうことか」と思えたとしても、そこからそのおこころを誰かと一緒によくよく尋ねて、ご信心をいただきましょう。そのまま自分勝手な聞き方にまかせていては、必ず間違えるものです。最近では、こういった聞き方で終わってしまう人が本当に多いのですよ。(『真宗聖典 第二版』990頁・取意)

 仏法は、「聞く」ことが大切だと言われますが、私たちは「自分勝手な聞き方」をして「必ず間違える」というのです。
 蓮如上人は、ほかのところでも、私たちを、「意巧(いぎょう)にきく物なり」「得手に法をきくなり」と、「こころ巧みに」「自分勝手に」聞くものであるとおっしゃいます。
 そして、だからこそ、「能(よ)く能く談合すべき」「あい談合すべき」と繰り返されるのです。
 現代においては、「談合」ではなく「座談」という言葉が使われますが、この座談の場も、少なくなってきているように感じています。
 蓮如上人がいまから500年以上前に「最近では、こういった聞き方で終わってしまう人が本当に多いのですよ」と歎(なげ)いておられる、その歎きを、改めて、いまこそ、聞き直すべきではないでしょうか。
 一方的に講師の法話を聞いて終わるのではなく、聞いた者同士が、それぞれの受け止めを語り合う(聞き合う)場を作ることを大事にしていきたいと思います。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長

仏教語 2026 09

僧侶の法話

言の葉カード

 新しいお墓を建てたいが、お彼岸とかお盆とか年忌の時やなかったらあかんと言いますが本当でしょうかと聞かれます。そういう時期に合わせるのもよろしいでしょうが、思い立った時に建てるのがいちばんよいのではないでしょうかと答えたら主人の年忌は三年先になりますし、安心しました。早速準備をすすめますとのことでした。お内仏(お仏壇)の場合も同じです。
 お墓の建碑式や、引っ越しでお内仏のおわたまし(御移徙〈ごいし〉法要と言います)を大安の日にするとか、なかには年忌が大安の日になればとか、とかく大安を気にする人も多いし、また、友引の日に葬式を出すとあかんとか、満中陰が三月(みつき)にまたがるといけないとか耳にすることも多いものです。
 本当にそうでしょうか。科学的な根拠があるのか。案外、みんながそう言っているからと縁起(えんぎ)をかつぐというか、気にする人が多いのではないでしょうか。
 仏滅の日に生まれてくる子もあれば、大安の日に死んで行く人もあります。今年(平成2年)の元旦は仏滅でしたし、3月17日の公立高校の学力検査の日も仏滅になっていますが、全員が不合格になるのか、そんなことはありません。
 大安や仏滅は一体誰が決めたのでしょうか。
 先勝(せんしょう)・友引・先負(せんぷ)・仏滅・大安・赤口(しゃっこう)の六曜(六輝)は暦法の一つで、中国の昔、農耕のための天候の目安として並べたに過ぎないとされています。
 まさに「如来につつまれた日々、大安も仏滅もなし」「今日もよし 明日もまたよし あさっても 良しよしよしと生きる喜び」、毎日が「日々是好日(ひびこれこうじつ)」、大安も仏滅もなしとの確信を待ちたいものです。

吉川 昌英氏
真宗大谷派 阿彌陀寺前住職(大阪府)

真宗大谷派大阪教区HP「銀杏通信」より
法話 2026 09

著名人の言葉

言の葉カード

 真宗大谷派は以前、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを掲げていましたが、僕はあれをすごくいい言葉だと思っています。それはなぜかをお話ししましょう。
 僕はインドのヒンディー語を勉強したんですが、ヒンディー語には「主格(しゅかく)」と「与格(よかく)」というふたつの構文があります。まず主格というのは「私は今日、電車でここに来ました」といったように「私は」とか「私が」で話し始める構文です。それに対して与格というのは、「私に」で話し始める構文なんですね。
 文法書には、「私の行為や状態が、私の意思の外部によって規定されている場合には与格を使う」と書いてあります。たとえば「今日、ちょっとかぜを引いちゃって、熱が出ちゃった」というのは与格です。意思を持って熱を出そうといっても、無理ですよね。意思の外部によって自分の状態が規定されているからなんですね。あるいは「私は皆さんに会えてうれしいです」といった感情表現の場合、「私に皆さんに会った喜びがやってきて、とどまっている」みたいな言い方をするわけです。
 では、与格というのがなぜインドの言語で重要な位置を占めているのか。それはやっぱり、人間は全て意思によって自分の行為をコントロールしているんじゃなくて、重要なものは外からやってくるという感覚が強いからだと思います。では、それはどこからやってくるのか。これはインド人にとっては自明のことで、「神」からやってくるわけです。そして、この与格的なもののほうが、人間にとって本質的だとおそらくインド人は思っているんですね。つまり、人間の本質は主格じゃなくて与格に現れるというわけです。
 僕は、この与格という考え方がすごく重要だと思います。近代的な人間は何でも「私が、私が」と言って主格で押し通そうとする。それに対して、与格のほうは、自分の意思を超えて外からやってくるものを重視するわけですね。大谷派のテーマで言えば、自分より大きな「いのち」が今あなたを生きている。そのことが他力という自分の外からやってくる力につながっていく。 そうした思想は非常に重要で、僕たちはそれを取り戻さないといけないと思います。

中島 岳志氏
政治学者

月刊『同朋』2026年1月号
(東本願寺出版)より
著名人 2026 09