「名号(みょうごう)」とは仏さま(阿弥陀(あみだ)さま)のお名前を表した言葉であり、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」は「六字の名号」、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」は「十字の名号」と言われています。
今回は、この「名号」という言葉について考えてみたいと思います。
「名」の字は、辺りが暗くなった「夕方(夕)」に自分が誰であるかを相手に伝えるために自分の名前を名のったというのが成り立ちです。
「号」の字は、口の下の部分は曲がったものをあらわし、「声(口)が真っ直ぐ伸びないで、緊張のあまり曲がってしまう、痛ましいさけびの意味」というのが成り立ちです。
「名」も「号」も、元々は書かれた文字ではなく、声として出された叫び、呼びかけという意味を持つ言葉であり、阿弥陀仏さま自身の名のりが名号ということになります。もっと言えば、その名のりとともに私たちに対する仏さまの願いが現れ出た、そのダイナミックな成り立ちが表現された言葉なのです。
親鸞聖人は、その著作である『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』において、この「名号」について、次のようにおっしゃっています。
「号」は、仏になられた後のお名前です。「名」は、まだ仏になられる前のお名前です。この仏さまの尊いお名前は、はかることもできず、説き尽くすこともできず、考え及ぶこともできない、あらゆる衆生(しゅじょう ※)をこの上もない覚(さと)りに至らせる大いなる慈悲の誓いのお名前なのです。(『真宗聖典 第二版』671頁・取意)
仏になられる前から私のことを呼び続け、仏になられても叫び続けておられるのが「名号」です。私たちが亡き人を想いながら「南無阿弥陀仏」と称(とな)えることには、そういう呼びかけ、叫びを聞いていくという意味があるのでしょう。そう考えると、「南無阿弥陀仏」の名号は、私たちの思いを超えて、私たちの人生をずっと支え続けてくれている「一生涯の宝物」と言えるのかもしれません。
- 衆生
- 生きとし生けるもの
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
仏教語 2026 11