この言葉は、『ダンマパダ(第17章「怒り」)』のなかの言葉です。以下の文章はこの言葉を含む全体です。
怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。
わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
怒りは三毒のひとつです。三毒は貪瞋痴(とんじんち)という最も根本的な三種類の煩悩(ぼんのう)のことです。貪欲(とんよく)とは欲望のことです。瞋恚(しんい)とは怒りのことです。愚痴(ぐち)とは無知のことです。無知から欲望と怒りとが生じます。無知とは、例えば子や財産は永遠に変化しない自己所有物であるという誤った理解です。自分の子なので自分の言うことを聞かせようという欲望が生じます。子が言うことを聞かないと怒りが生じます。自分の財産をもっと増やそうという欲望が出てくることもあります。自分の財産でも思い通りに増えずに、失うこともあります。思い通りにならないと怒りが生じます。煩悩の連鎖の根本は無知です。
では、この怒りにうち勝つにはどうすればいいのか。この言葉の通り怒らなければいいのですが、どうすればいいのでしょうか。無知があるから怒りや欲望という煩悩が生じるのです。無知がなくなれば煩悩も生じません。知識があれば、無知はなくなります。煩悩の根本である無知を滅す知識は、日常的なふつうの知識ではありません。それは智慧(ちえ)とよばれる法(ダルマ)です。法とは真理であり、ブッダ(お釈迦さま)の言葉です。
諸行無常(しょぎょうむじょう)というブッダの言葉があります。すべての現象は移り過ぎ、滅してしまうという意味です。怒りの感情が生じても、いつかは滅します。永遠に怒り続ける人はいません。人間の作った建物や町は、自然の力によって滅してしまうかもしれません。しかし、滅した状態もまた永遠にそのままではありません。時が経てば新たなものに生まれ変わります。これもまた諸行無常です。ブッダの言葉は、深い省察を含み、われわれに生活の指針を与えてくれます。
『ダンマパダ』(原始仏典)
大谷大学HP「きょうのことば」2011年9月より
教え 2019 04
「有頂天」。暮らしのなかでよく使われる言葉です。「喜びで舞い上がるさま。一つのことに夢中になり、うわの空になること」と辞書にあります。
しかし本を正せばこれは仏教語なのです。深い意味や問いが隠されているに違いありません。仏さまのお心に尋ねてみましょう。
まず、有頂天の「有」は迷える存在を意味します。「頂」は頂点、頂上、絶頂です。つぎに「天」とは神のことで、その世界を天界と言い、そこに生きる存在を天人と言います。
天人は欲望を離れてさらにより高次の精神(無色界 むしっかい)に生きていき、その精神世界の最高、世界の絶頂を有頂の天界、有頂天と言うのです。したがって、有頂天とは自分の思いが思いどおりに満たされてしまっているあり方、何も言うことのない世界です。今の世のなか、誰も彼も浮かれながら、ひたすらその世界を目指しています。
有頂天は自らの世界を最高にすばらしい世界だと思い込み、疑ったこともないのです。だから、有頂天は有頂天であることに気づかない、それほど有頂天であるということになります。
自らに酔う有頂天は、自分自身で自分自身に気づくことはありません。気づくのはただ一つ、現実からの呼び覚ましによるのです。それは浮かれた天人にとっては思いもしていなかった現実の苦悩なのです。苦悩に呼び覚まされてみて初めて有頂天は自らの夢の限界に気づき、天界から人間界に生まれ変わります。
人間に生まれることは苦悩を生きることです。しかし苦悩あればこそ、それをご縁にしてさらに人間として問わねばならない問いにも気づかされてきます。そこから思ってもみないお育てをいただき、生きることの悲しみの深さにも出会い、新たなるつながりを発見します。わが思いが満たされなくても、共に生きるという深い感動をいただくことになるのです。
「あなたは有頂天ではありませんか」の呼びかけは、「あなたはどこに身を置いていますか」の問いかけであります。わが夢以上の、わが思いが満たされる以上の感動のありかを尋ねたいものです。
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 04
4月8日はお釈迦さまがお生まれになった日です。お釈迦さまの誕生には物語があるのです。どういう物語かというと、お釈迦さまは生まれてすぐ七歩歩いたというのです。七歩というのはいったい何か。そこに隠喩(いんゆ)、隠れているものがある。七歩とは六道を一歩超え出るという意味なのです。
チベット仏教は六道輪廻(ろくどうりんね)思想です。生まれ変わり、死に変わりするということです。善いことをすれば善い所へ、悪いことをすれば悪い所へ行く、というのが基本的な考え方です。善因善果、善行善果、善い行為をすれば善い結果がある。そこには、私たちの固定化された発想というか、私たち人間に身についた考え方があるように思います。お釈迦さまは、その六道輪廻を超え出る、そういう発想を超え出るということを言われているのです。
七歩歩いたお釈迦さまが次にどうしたかというと、今度はしゃべったというのです。何とおっしゃったかというと「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という言葉です。「天上天下」とは、この世においてということです。「ただ我一人尊し(唯我独尊)」と続きますが、これは自分がいちばん偉いということではありません。お釈迦さまの存在をとおして、一人ひとりが実は尊いということを表しているのでしょう。生まれによって尊いとか卑しいということではないということです。それが、言語で表現されているのです。
つまり、そこに人間として生きていると。生命ということですね。その平等性といいましょうか、どんな人にも一人ひとりの人生があり、それは、生まれが良いとか悪いとかではない。一人ひとりに、生まれて生きている意味があるのだということをお示しくださっているのでしょう。ですから、尊い存在なのだということです。自分も尊いかもしれないけれども、隣の人も尊いということです。だから、自分も尊敬しなければならないけれども、隣の人も尊敬しなければならない。そういうことで「尊」ですね。はじめに尊敬ありです。
海 法龍氏
真宗大谷派 長願寺住職(神奈川県)
『苦悩の海をゆく』より
法話 2019 04
ロックミュージックは、やっぱりやみくもな「大丈夫だよ」をみんなで言ってくれるんですよね。オールライトです。からっとしているというか、悩みとかも受けとめて、「大丈夫だよ」と言ってくれる音楽なんです。そういうところが好きです。だから啓蒙主義的な音楽とはまったく別のところにある音楽なんですね。大衆音楽なんです。
『生者のマーチ(※)』は、お葬式の歌というより、生きている人たちのための歌なんです。生きている人たちの行進曲です。誰かが死んで悲しいということを歌っているんじゃない。生きているからこそ、引き寄せたり抱きしめたりしなければいけない。それは生きているときしかできない。いつか死ぬという悲しみをたずさえながら、生きているということをたたえるための歌。そういうつもりで作ったのですが、やっぱりみんな死のほうへ引っ張られる。もちろん鎮魂歌みたいな要素もあります。いつかは、ぼくたちも大きい何かに帰っていく。でも、生きているということを、もう少しみんな肯定的に自分の近くに手繰り寄せて、もっとぎゅっと抱きしめて生きなきゃいけないなと思うんですね。
- 『生者のマーチ』
- ベストアルバム『BEST HIT AKG 2 (2012-2018)』に収録の曲
後藤 正文氏
ミュージシャン/アジアンカンフージェネレーション
「サンガ」№155より
著名人 2019 04