暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「慈悲」は「仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)をあわれみ、いつくしむ心」(『広辞苑』)と辞書にあります。
 ところが、親鸞は『歎異抄(たんにしょう)』(第四条)で、「慈悲」には二つがあり、一つは人間の起こす「聖道(しょうどう)の慈悲」であり、もう一つは、阿弥陀(あみだ)さんの起こす「浄土の慈悲」だと言います。「聖道の慈悲」とは、人間が「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり」と押さえ、「しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」と限界のあることを教えます。確かに、愛する者との別れを経験しない人間はひとりもありません。それは自分が他者を愛することへの断念を教えます。しかし、この断念は絶望に終わるものではなく、ここが阿弥陀さんの慈悲、つまり「浄土の慈悲」が開かれる契機になるのです。

 「聖道の慈悲」とは、人間の愛情のことです。悲しいかな、人間は自分の望んだ形でなければ「愛」を感ずることはありません。つまり、人間の「愛」とは、愛する者を自分の思いのままに愛したいという欲望から起こるものなのです。たとえば「死別」という別れは、自分の欲望の対象を奪われることです。ところが、この「死別体験」をした者を、阿弥陀さんはことに悲しみ、「浄土の慈悲」を起こされます。『歎異抄』は、「浄土の慈悲」を「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心(だいじだいひしん)をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり」と語ります。この「念仏して」ということの第一義的な意味は、口で南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と称えるということではありません。悲しみも喜びも、洗いざらい、自分のこころのすべてを阿弥陀さんにおまかせせよという命令こそが、「念仏して」ということの真意です。「死別」は悲しみの体験ですから、涙が涸れ果てるまで泣くしかありません。でも、やがて涙を拭うときがきたなら、顔を上げ、再び生き始めるのです。その時が、亡き人も、自分も共に、阿弥陀さんの慈悲に包まれるときなのです。亡き人だけでなく、自分も共に救われることを、「浄土の慈悲」と言うのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2023 08