暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 現代語で「舎利(しゃり)」と言えば、お寿司屋さんが使う酢飯のことだと思っている人はいませんか。「舎利」はもともとインドの古代語、sariraの音写語で、「遺骨」のことです。火葬にされた人骨が白っぽいので、そこから「ご飯」を連想して「酢飯」を「しゃり」と呼ぶようになったようです。しかし「酢飯」から「遺骨」を連想するとは、すごい連想力ではありませんか。それは、どんなに美味しいものを食べても、人間の最後は「骨」に帰るからかもしれません。「シャリ」が「遺骨」のことだと知ってからは、お寿司を見る眼が変わります。「舎利」から自分の人生そのものが問われているようです。

 本願寺八代目の蓮如(れんにょ ※)上人は「白骨(はっこつ)の御文(おふみ)」を残しています。そこには「朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という有名な言葉があります。「朝には元気だった人間が、夕方には亡くなり焼骨されて白骨になる身である」という意味です。
 人は悲しい生き物で、「死」を知ってしまいました。脳が発達しなければ、おそらく人間は「死」を「死」として認識することはなかったはずです。誰かの「死」を見て、「これが死なんだ」と初めて認識したのです。その認識はそれで止まりませんでした。この「死」が自分自身にも訪れ、自分が「白骨」になることをも知ってしまいました。そのことは悲しいことですが、それが結論ではありません。そこから初めて「生の意味」を問うという快挙が人類に起こったのです。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 12