2021年師走(12月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 一度しかない人生、後悔はしたくない。こんな気持ちは誰の中にもあるのではないでしょうか。だから、何らかの理想や目標をもって生きていこうとするのが私たちです。目標に向かって物事がうまく進んでいるあいだは、問題を感ずることなく生きていけるかもしれません。しかし思い通りになることの方が少ないのが実際です。病気や事故、社会情勢の変化など、思いもかけないことが起こってくるたびに、「こんなはずではなかった」と言って苦しまなければなりません。そして、他の人と比べて自分の人生を情けなく思ったり、もう生きていく望みがないと言うことにもなります。
 自分を大切にしたいと思っているのに、どうしてそうなってしまうのでしょうか。思わぬことが起こってくるのが人生であるにもかかわらず、自分だけは大丈夫だと思い込んでいることに原因があるようです。そんな私たちに対して、すべての物事は必ず移り変わるということを、仏教は無常と教えています。その事実に目を覚まさない限り、自分の人生がいつまでも続くように夢見て、結局は空しく過ぎ去ってしまうと呼びかけているのです。

 生まれた者は必ず老い、病み、死にます。これは誰もまぬがれることのできないいのちの事実です。日頃は、その老病死をなるだけ見ないようにしがちです。しかし、見ないようにしていても、老病死が消えるわけではありません。その意味で、好きだとか嫌いだとかいう人間の思いを超えたいのちの自然のいとなみです。大事なのは、老病死を憎んだり、遠ざけることではありません。老病死ある人生をどう生きるか、問題を抱えている人生をどう生きるかということです。
 自分にとって楽しいことばかりでなくても、問題をかかえていても、その事実以外に自分の人生はどこにもありません。自分に都合のよい未来がやってくることを待っている間に、大切な今は過ぎ去ってしまいます。必ず死ぬ、限りあるいのちであるからこそ、何物にも代えられないのです。無常なるいのちの事実を深く念ぜよとは、今生きて在(あ)ることのかけがえのなさに目覚めよ、との呼びかけなのです。いのちのかけがえのなさに目覚めるとき、次々と問題が起こってくる人生を生き抜いていく勇気が湧(わ)いてくるのではないでしょうか。

『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』(親鸞)

大谷大学HP「きょうのことば」1997年11月より
教え 2021 12

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 現代語で「舎利(しゃり)」と言えば、お寿司屋さんが使う酢飯のことだと思っている人はいませんか。「舎利」はもともとインドの古代語、sariraの音写語で、「遺骨」のことです。火葬にされた人骨が白っぽいので、そこから「ご飯」を連想して「酢飯」を「しゃり」と呼ぶようになったようです。しかし「酢飯」から「遺骨」を連想するとは、すごい連想力ではありませんか。それは、どんなに美味しいものを食べても、人間の最後は「骨」に帰るからかもしれません。「シャリ」が「遺骨」のことだと知ってからは、お寿司を見る眼が変わります。「舎利」から自分の人生そのものが問われているようです。

 本願寺八代目の蓮如(れんにょ ※)上人は「白骨(はっこつ)の御文(おふみ)」を残しています。そこには「朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という有名な言葉があります。「朝には元気だった人間が、夕方には亡くなり焼骨されて白骨になる身である」という意味です。
 人は悲しい生き物で、「死」を知ってしまいました。脳が発達しなければ、おそらく人間は「死」を「死」として認識することはなかったはずです。誰かの「死」を見て、「これが死なんだ」と初めて認識したのです。その認識はそれで止まりませんでした。この「死」が自分自身にも訪れ、自分が「白骨」になることをも知ってしまいました。そのことは悲しいことですが、それが結論ではありません。そこから初めて「生の意味」を問うという快挙が人類に起こったのです。

蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 12

僧侶の法話

言の葉カード

 洗脳(マインドコントロール)というのは、自分の自由な考え方が心理的に操作され、正しく見たり批判することができなくさせられることです。しかし、本来の宗教体験とは、自分の考えや価値観、それに基づく進み方が通用しないことに出会って、これが自分だと思っていたことが大転換する、言い換えればそれまでの自分が崩れてしまう経験です。そして、そこから、揺るぎない真実に立脚した歩みが始まっていくのです。
 世の中には、宗教の顔をしたお金集めがあります。いわゆる怪しい宗教です。その特徴は、まず、「これを信じなかったら不幸になるぞ」と脅して勧誘する。次に、法外な献金を要求する。最初はごく少額でも、どんどん膨れあがっていく場合もあります。そして三つ目は「これを信じれば、あなたの願いが叶います」と近づいてくる宗教です。
 意外に思うかもしれませんが、本来の宗教は、そういう自分中心の欲が争いや不和を引き起こして自他を傷つけていたと気づかせてくれるものです。さまざまに縛られ閉塞している状況に気づいて、それが起因する元と目指すべき方向を知ることで、さまざまな課題を抱えながらも安心していきいきと生きる道が開かれます。苦悩している自分が、自分を超えた世界から願われ呼びかけられていたと気づいたとき、現実は違って見えてきます。

真城 義麿氏
真宗大谷派 善照寺住職(愛媛県)

『仏教なるほど相談室』(東本願寺出版)より
法話 2021 12

著名人の言葉

言の葉カード

 歴史をさかのぼって見てみると、人間が社会をつくっていく上で、他人の助けを借りないと生き延びることができないような人を、仲間として受け入れてきた歴史もあるのです。昔の遺跡を見ても、生まれつきの障害があった人が、長く生きていることがわかります。
 おそらく、自分で狩りに行ったりとか、食べ物を採りに行ったりする、いわゆる労働的なことができなかった人を仲間が支えていたのです。
 おそらく、その子の存在を受けとめる時に、頭で考えてもわからないような大事なものを抱えて生まれてきたのだろうと、かえって貴重な存在として見ていたのだと思います。
 そういうまなざしは今でも消えているわけではないものの、社会が発展し、特に近代になって生産性や効率性が重視されるようになってくると、障害者を社会から排除するような考え方が強くなっていきました。

 現代においては特に、日本人には自分を支えてくれる絶対神的なものがありませんから、他人や社会との関係の中で、自分の存在する意味を構築していると言えます。例えば、肩書きや自分の仕事、家族の中での立場などです。すると、それを失って自分が支える側から支えられる側になるのは耐えられないと感じるようになるのです。
 しかし、人間はみんな一人では何もできない状態で生まれてきます。そして、やがてはだんだん体力が弱ってくる。その時に家族、あるいは、医療や福祉のスタッフでもいいのですが、私は人の世話になれるのであれば、世話になっていいではないかと思うのです。
 ある種の美学もあってか、のたうち回っている姿や、惨めな姿を見せるのも迷惑をかけるのも嫌だという感覚が、支えられることを拒否していくのです。それは必然的に、支えられなければ生きられない存在を否定していくことにもつながります。

安藤 泰至氏
鳥取大学医学部准教授

「同朋新聞」2019年1月号(東本願寺出版)より
著名人 2021 12