僧侶の法話

言の葉カード

 悲しみには様々なすがたがあるようです。「私のことを誰もわかってくれない」「なぜ自分だけがこんな目に」という孤独感は、とてもつらいことだと思います。「もっと早く気がついていれば」「私があの人を見殺しにしたのでは」という自責の念や罪悪感は、とてもつらくて苦しいことだと思います。
 人は様々な悲しみをいだくもの。そして、様々な悲しみをかかえながらも、それでも人は今を懸命に生きようとするもの。それが、グリーフケアの動きの中で感じたことでした。

 親鸞聖人は「雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す」と言われます。
 雑行とは何でしょうか。雑行とは、すでにして人間が持っている経験や価値観・既成概念のことをいいます。雑行は、雑行という形をとらずに現れてくるものです。たとえば先ほどの悲しみのことでいえば、人は何とかして悲しみをいやし、そらし、なくそうとするものです。とても切実に。しかし、実はそれこそが親鸞聖人の棄てた雑行なのかもしれません。悲しみはない方がいいものという既成概念をたよりにするのではなく、悲しみに意味が与えられる世界をこそ、人間はたのむべき存在なのです。
 人間は願いを懐(いだ)いて生まれてきた、といわれます。しかし、その願いをどこかに置き忘れてきたのも人間。人間が感じる悲しみの現実は、実は願いに立ち帰れという呼びかけを聞く道場でもあります。そのように受け取れるかどうかが、静かに問われています。

 人は、皆誰もが、雑行と呼ばれる行を棄てて、本当の願いに帰ることを求めずにはおれない存在なのかもしれません。
 教えの光は、われらの日ごろのこころを雑行と知らせながら、本当の願いに帰るべきことを、たえず促しつづけているようです。
 人間の感じる悲しみを大切に体験しながら、私が本当に帰らなければならない世界を発見していく歩みこそが、待たれています。

酒井 義一氏
真宗大谷派 存明寺住職(東京都)

『今日のことば(2011年)』(東本願寺出版)より
法話 2023 05