人間の歴史の中で、思いどおりにならない事柄として「老病死」があります。そういう事柄について、「私はこうしたい」「こうして欲しい」という希望を明確にせよ、というのが「終活(しゅうかつ)」の側面でもありますから、そのことをどう考えていけばいいのか。私たちが「終活」を考える上で、どうしてもその認識はもっておかなければいけないと思います。
財産相続などの法律が関わってくる「終活」的取り組みは、事前の準備でうまくいくことがあります。しかし、「老病死」の問題、あるいは、「どのように」「どこで」亡くなるのが希望なのかという終末期医療の問題については、人との関わり(家族状況など)、経済状況の中で変化するため、必ずしも思いどおりにいく事柄ではありません。どういう介護を受けたいかも同様だと思います。
仏教に「死の縁、無量(むりょう)なり」という言葉があります。これは親鸞聖人の曾孫にあたる覚如(かくにょ)の言葉です。生まれた限り死は定まっている、しかし、その亡くなる縁は無量である。つまり、いつ、どのような亡くなり方をするかわからないというのが私たちの「生」であると押さえています。病気になるかもしれませんし、あるいは交通事故など不慮の事故に遭遇して亡くなる場合もあるかもしれません。
「終活」では、穏やかに高齢まで、最期まで生きていけることが前提となります。しかし、極端な話をいえば、交通事故にあって救急車で運ばれているその時に、延命治療の有無まで判断しなければならない状況も起こりえます。
未来の不確かなことを「終活」という取り組みの中で私たちは決めようとしているという認識が必要であると思います。その認識も持ちつつ、自身が何を大切に生きたいかを考える機縁となる「終活」の取り組みをおすすめしたいと思います。
『執持鈔(しゅうじしょう)』(覚如)
中島 航氏
九州大谷短期大学福祉学科・仏教学科講師
真宗会館ホームページコラム
『「終活」で本当に大事なこと』より
教え 2022 05
現代語の「邪見」は「よこしまな見方。誤った考え」ですが、仏教語では「因果の理を無視する誤った考え」のことです。親鸞は「正信偈(しょうしんげ ※)」で「邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難(じゃけんきょうまんあくしゅじょう/しんぎょうじゅじじんになん)」(邪見驕慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもって難(かた)し)と述べます。仏道の因果を無視し驕(おご)り高ぶる者は、他力の信心を得ることは不可能だとおっしゃいます。これは「邪見」の者に対する戒めのように聞こえますが、本当は親鸞自身の信仰告白でしょう。
「邪見」に執われている者は、それが「邪見」だとは気づきません。なぜならば、「邪見」とは「自分の思い」だからです。「自分の思い」は自分自身にとって無色透明ですから自覚することはできません。「自分は正しい」「自分は間違っていない」という思いそのものが「邪見」だと知らされるのは、〈真実〉との出遇(あ)いを待つしかありません。
親鸞は『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』で「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の衆生は、もとより真実の心なし、清浄(しょうじょう)の心なし。濁悪邪見(じょくあくじゃけん)のゆえなり。」と述べています。自分は「濁悪邪見」だから「真実の心」も「清浄の心」もないと言うのです。この文章で大事な言葉は「もとより」です。これは「もともと」あるいは「本来的に」という意味です。親鸞は、一生をかけて〈真実〉を求めて生きてきたけれども、それは「もともと」、〈真実〉に適っていなかったのだと目覚めたのです。
そのように自覚させたはたらきを「阿弥陀(あみだ)さん」というのです。その自覚は、いままで〈真実〉を追い求め、〈真実〉とひとつになろうとしていたこころを断念させます。この断念を経て、初めて〈真実〉を仰いで生きる人間として作り替えられるのです。
- 正信偈
- 正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2022 05
未来を求める思いは、ついつい結果のみを重視してしまうこととなりがちです。あまりにも結果にとらわれると、「今」というときは、未来の結果のための準備としてしかいただけなくなってしまいます。そうすると思いどおりの結果が出ないと、「何のために頑張ってきたか分からない。一生懸命やってきたことは無駄だった」と言ってしまうことになります。逆に、「終わりよければ、すべてよし」などという今までの歩みを軽視してしまう言葉も生み出してしまいました。
また、「病気の自分は不幸だ」と言ってしまいがちですが、病気が不幸なのではなく、健康の自分しか引き受けたくないから、病気である「今」が引き受けられないのでしょう。昨年亡くなった父が「逃げれば暗い、引き受ければ明るい」と言っていたことが思い起こされます。
仏さまは、過去も未来も含んでかけがえのない今尊しと教えてくださいます。思いどおりを求めて、「今」が尊しといただけないとき過去が後悔されて愚痴(ぐち)となり、未来の結果に縛られて生きることとなるのでしょう。「今」を尊しといただけるとき、愚痴と後悔と結果の束縛から解放されつつ人生を歩まさせていただくことであります。
寺本 温氏
真宗大谷派 真蓮寺住職(長崎県)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
法話 2022 05
「もう歳も歳だし、今さらしょうがない」「まだ若いから、経験を積んでからにしよう」…。思わず口をついて出る言葉。自分を納得させる言い訳のように使ってしまいます。出来事の大きい小さいにかかわらず、何かを後回しにしてしまうことはよくあります。
あるお寺の掲示板に「志を立てるのに、老いも若きもない」という松下幸之助の言葉が掲げられていました。「行動せよ」という、精神論的な言葉のようにも受け取れます。しかし、やらずにはおれない、確かめずにはおれない、行かずにはおれないといったような、そういう思いまで蓋を閉ざしていませんかという呼び声のようにも聞こえます。
何かを後回しにしてしまったり、自分の思いに蓋をしてしまったりということについては、現代社会の様相も少なからず影響しているような気がします。つまり、他人の目線や評価を気にしてしまう。反対に、他人が為すことばかりに目がいってしまう。それは「比べる」という心があるからでしょう。そうすると、自らを省みることなしに、他の人の言動や行動ばかりが気になってしまうものです。
他人の志ばかりに口を出すのではなく、果たして自分はどうなのか。そんなメッセージとしても、胸に刻みたい言葉です。
松下 幸之助氏
実業家・経営者
著書『道をひらく』の言葉
著名人 2022 05