2021年睦月(1月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 蓮如上人(蓮如/れんにょ ※)のお手紙(『御文(おふみ)』)に「疫癘(えきれい)の御文」があります。

当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業(じょうごう)なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。
 疫癘は伝染病、疫病のことです。今でいえば新型コロナウイルスです。当時、疫病が流行り亡くなる人が多かったようです。でも流行り病に限らず、命は必ず死んでいく定めがあります。つまり生まれた時から、私たちはすでに死を抱えながら生きているのです。それを「さだまれる定業なり」とおっしゃっています。
 では、なぜそのように言わなければならなかったのでしょうか。それは私たちがその事実を受け止めることが難しいからです。人には自己愛や自己保身の心があります。思い通りにしたい心です。そして、その心が時代社会の苦悩を生み出してきました。それを「罪業(ざいごう)」という言葉で示しておられます。「罪」と「業」(行為、経験、歴史)です。
 私たちが生きてきた歴史は罪を重ねてきた歴史です。事実を事実として受け止められず、自分の思い通りにしたい心が、ことさら死を嫌悪し、また人をも排除し傷つけ合ってきた歴史、業、そしてそのことに気がつかないで生きてきたのだと。

 しかし、『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう ※)』の「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の教えは「ああ、そういう私たちだった」ということを知らしめてきます。今回の新型コロナの状況下のような、どんな不安定な生活の中にあっても、私たちの業の痛み悲しみをこの身に受けながらも自分の立ち位置が定まった生きていける世界が私たちに開かれてくるのです。
 思い通りにしたい心、私たちのエゴイズムは人間の尊厳を見失います。その心を仏教では煩悩(ぼんのう)と言います。そういう心で生きているのが私たちなのです。それが人間にとって「真」に目を開いていかなければならない「事実」であり「真実」です。つまり尊厳と煩悩、人間の本質です。そのことが『御文』の中に示されているのです。

蓮如(1415〜1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶
仏説無量寿経
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

『御文』(蓮如)

海 法龍氏
真宗大谷派 首都圏教化推進本部員
『真宗会館オンライン法話』より
教え 2021 01

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「利益」を「りえき」と読めば経済観念の損得を表しますが、「りやく」と読めば仏教語になります。「仏や菩薩(ぼさつ)の慈悲、あるいは修行の結果として得られる利益」などを表します。経済観念の「利益」は、比べるという欲望世界の言葉です。何かと比べて得になることだけが利益です。人間は比べて喜ぶ生き物ですが、比べることによって自分自身を傷つける生き物でもあります。仏法(ぶっぽう)の「利益」とは、その「比べる」という人間の欲望を超えさせます。比べる世界は幻想であり、比べられない世界が〈真実〉なのだと逆転させます。逆転されることで、「比べる世界」に一喜一憂しない「利益(りやく)」が与えられるのです。

 私たちは、「比べる世界」が「現実の世界」だと思って生きています。年齢や貧富や美醜や能力など、すべて「比べる世界」です。しかし、百歳で亡くなられた老人と二十歳で亡くなられた若者と、どちらの人生が尊いと言えるでしょうか。それは同じく尊いではないかと、理屈では言えるでしょう。しかしそうは言いつつ、本音のところでは、「やはり百歳の老人のほうがよい」と思っているのです。私たちの目は、とことん「比べる世界」に汚染されています。その汚染されている目を、打ち砕こうとするのが仏法です。とことん汚染されているのであれば、それをとことんまで打ち砕こうとする仏さんの暴力に晒(さら)されるのです。本当の「利益」とは、この仏さんの暴力を受け続けることなのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2021 01

僧侶の法話

言の葉カード

 私には、「生きることを学ぶ」という言葉が心に深く響いてきたことがあります。それは、私自身が、何をしでかすかわからない自分自身の煩悩(ぼんのう/欲望)に恐れおののき、生きるのが辛く、生きることから逃げようとしていた時のことでした。その時、たまたまキリスト教のお墓に記された “Learn to live, and live to learn” (生きることを学び、学ぶために生きなさい)という言葉が目に飛び込んできました。
 その言葉は私に、「あなたは生きることを楽しいこと、幸せなことと思い込み、辛いことがあるからと、生きることから逃げようとしているのではないか。人生とはそういうものか。人生には、苦しいこと、悲しいこと、病も老いも死もある。そういう人生をどう生きるのか、もう一度学び直しなさい。あなたはそのために生きるのだよ」、そう呼びかけてきました。私はその言葉に出会い、よろよろと立ち上がることができました。

宮森 忠利氏
小松大谷高等学校 前副校長

『苦悩を超えて歩む』(東本願寺出版)より
法話 2021 01

著名人の言葉

言の葉カード

 人は必ず誰もが想像力をもって生まれてきます。そして想像力とは、いろいろ体験したり、本を読んだり、人と結びついたりしながら、だんだん育てていくもの。それを自分でどう増やしていくか、使っていくかは人それぞれだけれども、おもしろいなあと思うことや、こうしたいなと思うことを大事なものとして抱えていけば、それが生きる力という魔法になってくれます。
 だから、姿を消したり、人を石に変えたりするのが魔法ではないの。自分で自分を育てていく力が魔法なんですよね。
 魔女も、魔女狩りとか魔女裁判といった怖い話はあるけれど、恐ろしい存在ではないんです。魔女の始まりは、お母さんの優しい気持ちでしたから。というのは、かつて人々は厳しい自然の中で、いつも命の不安を抱えて暮らしていたのね。子どもが生まれても丈夫に育つとは限らないし、悲しい思いをする母親がたくさんいたの。そんな中、木は冬になると葉を落として死んだような枯れ木になるけれども、それでも春になると芽吹くし、花も実もつける。その自然の力、エネルギーを、家族のために摂り入れたいと思ったのでしょう。木の葉をお茶にして飲んだり、枕に入れたりして。それがそもそもの始まりです。
 魔女はね、見える世界と、その向こうにある見えない世界を両方同時に見ている人たち。見えない世界を想像し、そこにあるエネルギーを感じて、暮らしに取り入れていった。だから見えないものを見ようとする力が魔法で、その能力は誰にもあるのです。

 想像力とは、まさに見えないものを見ようとする力
 枯れた木を見ても「死んだ木なんだわ」と何も想像力を働かせなければ、そこでおしまい。でも「どうしてあの木は春になったら芽吹くんだろう」とか、「特殊な魔法をもっているに違いない」と想像力を働かせ、見えないものの中に豊かなものがあると感じる。人はそういうふうに生きていかないと、ギスギスした貧弱な世界に生きることになってしまいます。
 今の世の中は数字だとかお金だとか成績だとか、見える世界ばかりを大事にしているけれど、見える世界と見えない世界の両方がないと、人はイキイキ生きられないんです。

角野 栄子氏
児童文学作家

月刊『同朋』2019年3月号(東本願寺出版)より
著名人 2021 01