仏教の教えについて

言の葉カード

 蓮如上人(蓮如/れんにょ ※)のお手紙(『御文(おふみ)』)に「疫癘(えきれい)の御文」があります。

当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業(じょうごう)なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。
 疫癘は伝染病、疫病のことです。今でいえば新型コロナウイルスです。当時、疫病が流行り亡くなる人が多かったようです。でも流行り病に限らず、命は必ず死んでいく定めがあります。つまり生まれた時から、私たちはすでに死を抱えながら生きているのです。それを「さだまれる定業なり」とおっしゃっています。
 では、なぜそのように言わなければならなかったのでしょうか。それは私たちがその事実を受け止めることが難しいからです。人には自己愛や自己保身の心があります。思い通りにしたい心です。そして、その心が時代社会の苦悩を生み出してきました。それを「罪業(ざいごう)」という言葉で示しておられます。「罪」と「業」(行為、経験、歴史)です。
 私たちが生きてきた歴史は罪を重ねてきた歴史です。事実を事実として受け止められず、自分の思い通りにしたい心が、ことさら死を嫌悪し、また人をも排除し傷つけ合ってきた歴史、業、そしてそのことに気がつかないで生きてきたのだと。

 しかし、『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう ※)』の「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の教えは「ああ、そういう私たちだった」ということを知らしめてきます。今回の新型コロナの状況下のような、どんな不安定な生活の中にあっても、私たちの業の痛み悲しみをこの身に受けながらも自分の立ち位置が定まった生きていける世界が私たちに開かれてくるのです。
 思い通りにしたい心、私たちのエゴイズムは人間の尊厳を見失います。その心を仏教では煩悩(ぼんのう)と言います。そういう心で生きているのが私たちなのです。それが人間にとって「真」に目を開いていかなければならない「事実」であり「真実」です。つまり尊厳と煩悩、人間の本質です。そのことが『御文』の中に示されているのです。

蓮如(1415〜1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶
仏説無量寿経
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

『御文』(蓮如)

海 法龍氏
真宗大谷派 首都圏教化推進本部員
『真宗会館オンライン法話』より
教え 2021 01