2019年水無月(6月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「いのち」は思いを超えてずっと動いている。けれども、社会的な存在としての人間には、何か自分の利害や都合がある。そういうことが行動の原理になっていると思うのです。そういう人間の欲望をブッダ(お釈迦さま)は、「快と不快によって欲望が起こる」とおっしゃっています。快適なものを追求して不快なものを排除したい。こういうことが私たちの行動の最も深い原理のところにある。例えば、犬なら犬を人間の都合によって改良してきた歴史もある。科学によって解明されればされるほど、人間の都合によって利用されるときには、とんでもないことになっているのではないか。
 そういういのちの問題と、それを受け止めかねる自我の問題。そしてその自我の問題の中に「苦」ということがあり、その苦ということを仏教は二千五百年間考えてきた。
 「快と不快」。都合のいいことを拡大して、都合の悪いことを排除していく。これが人間の心の一番深いところにある問題です。そういうところから欲望が起こってくる。つまり、排除したいとか、もっと増やしたいとか、そういうことの営みの上に、今、私たちの社会があると思うのです。
 不快なものを排除すれば、快適な世の中になるのかと言えば、私はそうならないのではないかと思うのです。不快なものを排除すれば排除するほど、ちょっとした不快なことが、ますます不快になっていく。そういう世の中になっていくと、私たちの営みが、自分で自分の首を絞めていくことになるのではないか。今すでに、そういう意味でだいぶ絞まってきているのではないかと思うのです。
 ですから、いのちは閉塞しないと思いますが、それを閉塞させていくような自我の問題に気が付かなければならない。私たちは、どこに立っているのかということを忘れずに歩んでいく。そういうことが課題であると思っています。

「ブッダの言葉」

織田 顕祐氏
大谷大学教授
「第5回親鸞フォーラム」より
教え 2019 06

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 漢字で表現される場合ももちろんあるのですが、最近では「ビミョウ(ビミョー)」とカタカナで書かれている場合も多く目にします。確かに時代とともに微妙という言葉の意味に変化がみられます。会話のように「ビミョー」と使われる時には、今の状況が不安定で割り切れない状態になっている場合で、どちらかといえば、うまくいっていない方に傾いているニュアンスです。「合格するかビミョー」。困ってしまう、悩んでしまう、なんとかしてくださいよ、とつぶやいているようです。ところが「微妙」の意味は本来は正反対で、悩みの種になるどころか、悩みを克服していく出会いを意味している仏教語なのです。
 仏教では微妙と書いて「みみょう」と読みます。言い尽くせない奥深い意味合いがあるということで、もともと肯定的で積極的な意味をもっているのです。
 私たちが親しんでいる「三帰依文(さんきえもん ※)」があります。そのなかに、「無上(むじょう)で深甚(じんじん)にして微妙なる法」との出会いが大切であると書かれています。
 ちっぽけな、身勝手な人間の解釈ではおさまらないほどの深さ、広さ、豊かさを内容にしている仏法。私たちは、それを背景にして今ここにこうして生きている。それに出会い、自分の思い込みを超えてこそ、限りなくわが身を丁寧に生きることができると教えてくださっています。気づかされてみれば、本来、落ち込む必要もなく、目先のことばかり考えてクヨクヨする必要もないのでしょう。
 人生、生きてみれば実に豊かで頭の下がることばかりだと知らされてまいります。ですので、その出会いをご縁にしてこそ、いよいよ教えられ育てられて歩むわが身をいただくのです。限りなく人生を生きることができるのであります。人生に限界はありません。
 しかし、そのなかにあって、閉ざしてしまっているわが身の狭さが知らされてきます。したがって、微妙なる仏法を仰ぎ、同時に知らされてくるわが身自身の狭さとたたかうこと。それが自らを生きることであります。

三帰依文
お釈迦さまが説かれた「法」、法に目覚めた「仏」、法を依りどころとする人の集まり(=「僧」)の3つを「三宝(さんぼう)」といい、「そのことを大切な宝ものとして生きていきます」と、法話の前などに唱和される文。

大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長

『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2019 06

僧侶の法話

言の葉カード

 相田みつをさんの「おまえさんな いま一体何が一番欲しい あれもこれもじゃだめだよいのちがけでほしいものを ただ一ツに的をしぼって言ってみな(※)」と問うてくる詩があります。皆さんはいかがでしょうか。命がけで欲しい、これがあったら他に何もいらないというものやこと。
 私は以前、「やりがい」と「生きがい」ということを教えて頂きました。「やりがい」というのは目的を果たしたら一旦そこで終わってしまいます。それは果たして「生きがい」といえるのでしょうか。「やりがい」は次々変わりますが、「生きがい」は早々変わるものではない。もっと言えば変わらない、変わりようがないことが「生きがい」ということではないでしょうか。
 私たちの宗旨は浄土真宗です。「浄土」とは本願(ほんがん ※)が形をとった土であり、土ということは場所という事です。本願は仏さまが衆生(しゅじょう ※)を救わんと思う本当の願い。「真」とはまこと、つまり変わらないということ。それから「宗」ということはよりどころ。浄土真宗とは、「浄土が真の宗であり、浄土こそ私の真の宗である」ということです。
 あれやこれやの願いが叶うこと、状況が好転すること、それが果たして本当に助かるということなのでしょうか。浄土真宗に限らず、宗教心ということがどういうことからくるのかというと、私は助かりたいというところから起こってくるのが宗教心であると思います。
 清沢満之(きよざわまんし ※)という先生は、「人心の至奥(しおう)より出(い)づる至盛(しじょう)の要求の為に宗教あるなり」とおさえられました。人の心の最も奥底から突き上げてくる、とめどなく起こってくる要求ということです。命の底から湧き上がってくる本当の要求ということでしょう。それを問い、答えるために宗教がある。この言葉は、そういうことを教えて頂いてるのだと思います。助かるというのは、物事を好転させたり、処方箋を出す対症療法のことではないということです。
 相田みつをさんが言われた「命がけで欲しいもの」とは、「至奥より出づる至盛の要求」である。こういうことなのではないでしょうか。

※『ある日自分へ』Ⓒ相田みつを美術館

本願
全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
衆生
生きとし生けるもの
清沢満之(1863~1903)
明治期の哲学者、宗教者。真宗大谷派僧侶。

松永 光司氏
真宗大谷派 信光寺住職(東京都)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2019 06

著名人の言葉

言の葉カード

 兼好法師の『徒然草(つれづれぐさ)』は、柔軟でユーモアに富んだ随筆です。しかし、その背後には、非常に厳しい無常観・死生観がひかえています。
 彼はまず四季の移り変わりを次のように説明します。春が終わって夏が来るのではない。夏が終わって秋が来るのではない。夏の中には、すでに秋の気というようなものがあって、それがだんだんと広がって、いつの間にか秋になるだ、と。あるいは小春という言葉。——小春というのは、冬のぽかぽかとした日ですが、そういう小春がだんだんと大きくなって、いわば「大春」になった時、ああ春になったな、というふうに季節は移りゆくのだ、と。兼好は、このように季節の移りゆきを観察した後、人間の生き死に、生老病死も同じだと言っています。
 つまり、生が終わって死が始まるのではなく、生の中にすでに死が始まっている。「死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり」——。いつか死ぬ、この先に死があるというのではなく、死は前もって背中に張り付いているのだ、と。
 だからこそ、今ここでの生をそれとして喜び楽しめ、というのである。

竹内 整一氏
鎌倉女子大学教授

第4回 親鸞フォーラム
「人間・死と生を見つめる―今を生ききるために―」より
著名人 2019 06