仏教の教えについて

言の葉カード

 「いのち」は思いを超えてずっと動いている。けれども、社会的な存在としての人間には、何か自分の利害や都合がある。そういうことが行動の原理になっていると思うのです。そういう人間の欲望をブッダ(お釈迦さま)は、「快と不快によって欲望が起こる」とおっしゃっています。快適なものを追求して不快なものを排除したい。こういうことが私たちの行動の最も深い原理のところにある。例えば、犬なら犬を人間の都合によって改良してきた歴史もある。科学によって解明されればされるほど、人間の都合によって利用されるときには、とんでもないことになっているのではないか。
 そういういのちの問題と、それを受け止めかねる自我の問題。そしてその自我の問題の中に「苦」ということがあり、その苦ということを仏教は二千五百年間考えてきた。
 「快と不快」。都合のいいことを拡大して、都合の悪いことを排除していく。これが人間の心の一番深いところにある問題です。そういうところから欲望が起こってくる。つまり、排除したいとか、もっと増やしたいとか、そういうことの営みの上に、今、私たちの社会があると思うのです。
 不快なものを排除すれば、快適な世の中になるのかと言えば、私はそうならないのではないかと思うのです。不快なものを排除すれば排除するほど、ちょっとした不快なことが、ますます不快になっていく。そういう世の中になっていくと、私たちの営みが、自分で自分の首を絞めていくことになるのではないか。今すでに、そういう意味でだいぶ絞まってきているのではないかと思うのです。
 ですから、いのちは閉塞しないと思いますが、それを閉塞させていくような自我の問題に気が付かなければならない。私たちは、どこに立っているのかということを忘れずに歩んでいく。そういうことが課題であると思っています。

「ブッダの言葉」

織田 顕祐氏
大谷大学教授
「第5回親鸞フォーラム」より
教え 2019 06