2024年皐月(5月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「共命(ぐみょう)の鳥」は、非常に有名な鳥で、仏教の譬(たと)え話によく登場します。インドにおける様々な因縁物語や譬喩(ひゆ)物語などを集めた『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』という経典の中には、次のように説かれています。

 昔、雪山(せっせん)の中に鳥あり。名づけて共命とす。一身にして二頭なり。一頭は、常に美しき菓(か)を食(じき)し、身に安穏(あんのん)を得しめんと欲す。一頭は、すなわち嫉妬の心を生じて、この言(ごん)を作(な)さく、「彼は常にいかんが好美(こうみ)の菓を食するや、我は曾(かつ)て得ず」と。すなわち毒の菓を取りて、これを食し、二頭ともに死せしめたり。(『大正新脩大蔵経/たいしょうしんしゅうだいぞうきょう』第四巻・四六四頁上段)

 「共命の鳥」は、「一身にして二頭なり」と説かれるように、身は一つですが、頭が二つある鳥です。一頭は、いつもおいしい果実を食べ、その身を健康に保っていました。しかし、もう一頭は、同じようにはいきません。ですから、嫉妬の心を起して次のように言いました。「どうして、彼だけいつもおいしい果実を食べることができるのか。私は、どれだけ求めても食べることができないのに」と。そして、毒の果実を取って食べてしまいました。その結果、二頭とも死んでしまったのです。

 「共命の鳥」は想像上の鳥ですが、その一頭が嫉妬の心を起して毒を食べてしまったことは、私たちの生き方そのものを表しています。それは、自分に都合の良いものだけを求め、都合の悪いものは排除するという自分中心の生き方です。例えば、夫婦・家族・友達、広く言えば、国・世界において、私たちは共に関わり合って生きています。しかし、そのことを忘れて、争い、傷つけ合えば、本当の意味で生きているということにはならないのです。これを「自害害彼(じがいがいひ)」、または、「自損損他(じそんそんた)」と言います。自分一人だけで生きることが成り立たないということを、「共命の鳥」は教えているのです。

『雑宝蔵経』

青木 玲氏
九州大谷短期大学准教授
『はじめて学ぶ『阿弥陀経』』(真宗大谷派 九州教務所)より
教え 2024 05

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「あの人は慳貪(けんどん)な人だ」という言い方がかつてはありましたが、今はあまり聞かれないようです。「けちで欲深い」「思いやりがない」「冷淡」「不愛想」という意味で使われていました。「つっけんどん」と言えば、今でも耳にすることがあるかもしれません。漢字で表記すると「突慳貪」となります。「慳」は物惜しみをすること、「貪」はむさぼることと、辞書にはでています。

 仏教では、「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんい)」「愚痴(ぐち)」を三毒の煩悩(ぼんのう)と教えています。「貪欲」は自分が欲しいものをどこまでも追い求めそれにとらわれる「むさぼり」の心です。この欲しがる「むさぼり」の心が強ければ、お金や物を出し惜しみすることにもなりますから、それが「慳貪」と表されたのです。
 特別何かをむさぼるということではなくても、わたしたちは自身の生活の安定、学びや仕事や運動ができる能力、さらにそれを充実させて人生を意味あるものにしたいと考えていないでしょうか。
 現代において生活を安定するために求められるのは富、財力です。また自分の能力を十分発揮できるには、それにふさわしい地位やポジションが必要です。そうして富に裏付けられ、ふさわしい地位があれば、世の中や人々から認められ「いいね」が贈られますから、名誉を得て生きる意味があったということになります。多かれ少なかれ財産欲と地位や権能を求める欲と名をとどめたい名誉欲が私たちを動かしています。
 ですから、富や地位や名誉が願ったように得られなければ、腹が立ちます。奪われるようなことになれば恨みともなります。それが「瞋恚」です。それで富や地位や名誉を争い、その争奪に夢中になって、周りの迷惑や自分の醜さが見えなくなる姿が「愚痴」です。仏教はこの「貪欲」「瞋恚」「愚痴」を無くせというのではありません。それを私たちは身に備えていて、そこに問題の元があることに目を覚ませと教えているのです。

四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)

仏教語 2024 05

僧侶の法話

言の葉カード

 合掌は、左右の手のひらと五指を合わせて、尊敬の気持ちをあらわす作法です。古代インドからの礼法なのですが、これが東南アジア、中国から朝鮮半島を経て、日本に伝えられました。人々は互いに尊敬の気持ちを伝えるために合掌し合うのです。合掌とは相手を敬(うやま)い、信頼することをあらわす挨拶(あいさつ)です。仏教徒の場合、合掌は、両手を合わせて念珠(ねんじゅ)をかけ、心の散乱をしずめ、集中させて、仏・菩薩(ぼさつ)に敬意をあらわしています。

 心というものは、見たり、触ったりすることができません。尊敬の気持ちをいくら募(つの)らせていても、具体的な形をとらなければ、伝わらないのです。阿弥陀仏(あみだぶつ)が名号(みょうごう)という具体的なはたらきをとってくださるように、私たちもまた、合掌という具体的な形をとるのが自然ではないでしょうか。気持ちには姿勢などの行為が伴うものです。

 このように合掌の姿勢をとることには、阿弥陀仏への敬いをあらわす意味がありますが、それだけではなく、阿弥陀仏を信じるということを自分自身にも思い知らせるという意味があります。合掌することで、尊敬の気持ちをまず自分自身にも知らせていくのです。

古田 和弘氏
大谷大学名誉教授

『Q&A 本尊の?に答えます』(東本願寺出版)より
法話 2024 05

著名人の言葉

言の葉カード

 「…いや…… …ええと …うん 日記を …つけはじめるといいかも知れない」
 「日記?」
 「この先 誰が あなたに何を言って …誰が 何を 言わなかったか あなたが 今… 何を感じて 何を感じていないのか たとえ二度と開かなくても いつか悲しくなったとき それがあなたの灯台になる」
(ヤマシタトモコ『違国日記』第1巻、第2話より)
 突然の事故で両親を失った女の子に、その亡き母の妹である女性がこのように語っている。
 様々なSNSが横溢(おういつ)する現在、紙媒体の日記に手書きするひとはどれほどいるだろう。少なくとも私はそのひとりではないし、友人たちを思い浮かべてはみるものの見あたらないようだ。
 こう書き出してみると、ある思い出がふと去来する。2007年、原美術館で見たヘンリー・ダーガーのことだ。ダーガーは人知れず、2万ページを超える物語原稿と300枚以上の挿絵(さしえ)を遺して生涯を終えていった。かれは自作の原稿を読み返しただろうか。寝る間を惜しんで書き継ぎ、もしかすると2度と開かれないページもあったのではと想像をめぐらせる。同時に、遺されたあらゆるページはかれの生を照らす灯台ではなかったかとも思う。
 日記を書くのは、どんなこころなのか。1日の終わりにひとり、まっさらなページに向かう。その日の些事(さじ)、投げかけられた言葉、感じたことなどを記すとき、ひとは必ずしもひとりではない。メモ程度の日記であれば話は別だが、腰を落ち着けて黙々と書こうとすれば、すでに過去となった出来事が再現され、ひとびとが躍動し語ることもある。他者のみならず、いまあらわされ出(い)づる言葉を読むみずからもまた見出されてくる。さらにはその日記がいずれ誰かに読まれることになる、そんな未来までもが、ペンを走らせるところに訪れている。しばしのあいだ足をとどめ、日々のきめを手探り、あらわす。悠々たる時がそこには流れているのだろうか。

漫画『違国日記』第1巻(ヤマシタトモコ)

東 真行氏
真宗大谷派 常行寺(福岡県)
親鸞仏教センターHP「今との出会い」第196回
著名人 2024 05