2025年師走(12月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 これは、『相応部経典(そうおうぶきょうてん)』の中の「燃焼経(ねんしょうきょう)」と呼ばれる経典の一節です。この経文は「すべてが燃えているとはどういうことか」と続き、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)という6つの感覚器官、そしてそれらの感覚器官の対象である色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)が燃えているのだと説いています。さらに、それらの感覚器官が対象に接触したときに生じる認識作用も燃えているとされます。では、何によって燃えているのかというと、それらは貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の火によって燃えているのだと説明されます。つまり、私たちの貪りや怒り、愚かさによって、この「私」という存在が燃え上がっているのだとブッダは教えています。
 現代では、インターネット上で、特定の対象に対して誹謗(ひぼう)中傷や批判などが集中する現象を「炎上」と言います。「〇〇が炎上」というニュースを目にするたびに、このブッダの教えが思い浮かびます。一方で、私たちは普段、「炎上」という言葉を耳にしても、炎上しているのも炎上させたのも私ではないと、どこか他人事(ひとごと)のように捉えているのではないでしょうか。しかし、ブッダの教えによれば「炎上」は他人事ではなく、私たち自身の問題なのです。私たちは、貪(むさぼ)り執着し、怒りに駆られ、愚かさによって思考停止し、自らを炎上させてしまうことがあります。そして、私が炎上することによって、誰か他者を傷つけてしまうのです。
 ブッダは、燃え上がっている自分自身を見つめ、その炎上している心を厭(いと)い、そこから離れるべきだと説いています。ブッダの教えに学び、自らの感情に振り回されることなく、炎上しない自分のあり方を探求していきたいものです。

比丘
ブッダのもとで出家し、仏弟子になった修行僧

『相応部経典』「燃焼経」

光華女子学園HP
「今月のことば」(2024年11月)より
教え 2025 12

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「生死(しょうじ)」とは、生まれ変わり死に変わりして繰り返し繰り返す、私たちの迷いを表す仏教の用語です。私たちにとって、生まれること、死ぬことは、自分の思いのままにならないことです。生まれようと思って生まれたのではありません。生まれた以上必ず死があります。いつの間にか生まれ、どうしても死なねばならないというのが私たちの現実ですが、それでは自分が生まれたという意味がはっきりしません。生まれたからしかたなく生きて、死にたくないけれどもしかたなく死ぬということでは納得がいきません。
 満足がいかない形で「人生を終らせたくない」と願う心こそ、仏教を求める心です。私たちの誰もがこの心を強く持っているのではないでしょうか。
 しかし私たちは、この心の満足を求めて、私に仕事や知識や経済的豊かさなど、世間での評価が加われば、満足いくものになるのではないかと考えます。
 ただこれは、成績や成果という評価や比較の中で求めるのですから不確実なことです。他人と比べて羨(うらや)んだり、嫉妬したり、時に蹴落としてでもと恨みに駆られることもおきます。そして「人生をこれで終わらせたくない」と出発するのですが「結局思いどおりでなかった」と元に戻ってくるのです。そしてまた、「今度こそ」「心機一転」「今年こそ」と何度も自分に言い聞かせながら、それを繰り返します。その繰り返しを超えた仏様が、私たちの迷いの姿を「生死」と呼ばれるのです。

四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)

仏教語 2025 12

僧侶の法話

言の葉カード

 中島敦の『山月記(さんげつき)』という話をご存じでしょうか。詩人として名を上げようとした主人公・李徴(りちょう)が、自身の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に飲み込まれて虎になってしまう、という話です。
 「自尊心」は「自信」や「プライド」と呼ぶこともできます。博識で知恵が非常に優れ、若くして官吏登用試験に合格する李徴には、自身が才能のある詩人だという強いプライドがあったのです。しかし、後生にまで名が残るような詩家になりたいと言いながらも、自分から進んで先生に就くこともせず、また詩の仲間と交わって切磋琢磨(せっさたくま)することはありませんでした。それは「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」が、そうさせたのです。
 李徴は、表面的には「自分は優れた詩人なんだ」という自尊心、つまり「優越感」に溢(あふ)れた人物だったのでしょう。しかし、その内面には、「自分には詩の才能がないのでないか」「他人より劣っているのではないか」という強烈な「劣等感」に充ち満ちていたのでしょう。
 この自分自身を狂わせていく内面のことを李徴は「猛獣」だと言いました。さらに李徴は、誰もがこのような「猛獣」を自身の内側に飼っている「猛獣使い」なのだと言います。
 もし李徴が、自分の劣等感を「まっすぐに」認め、向き合うことができたら、そこから地道に努力し有名な詩人になれたかもしれません。しかし、「まっすぐに」認められなかったが故に、優越感によってどこまでも劣等感を隠し続け、ついには人間の心を失い虎になってしまったのです。
 優越感も劣等感も、どちらも「勝ち負け」で価値をはかるモノサシから生まれるものであり、コインの裏表のようなものなのです。

曽我 量深(そがりょうじん/1875〜1971)氏

伊那西高等学校HP「こころの掲示板」より
法話 2025 12

著名人の言葉

言の葉カード

 最初は、ホンワカした空気に包まれ、心地よい時間が流れていく。聞き慣れない、それでいて体内最深部まで入り込むリズムの反復、なんとも脳天気なメロディに浮遊感がとまらない
 バンコクの裏路地にある紫煙に煙った小汚いカフェ、そこで僕はボブと出会った。
 ボブが生まれたジャマイカは、中南米のご多分に洩(も)れず、欧米に恣(ほしいまま)に収奪されているカリブの島国だ。父は大会社を経営する61才のイギリス人、母は16才のジャマイカ人。6才で父に引き取られるが、父の友人に預けられ、その後父は二度と姿を見せなかったという。10才の時父は亡くなり、母とともに首都キングストンのスラムでの生活。そして音楽と出会い、17才頃ミュージシャンとなる。28才でメジャーデビューするが、3年後、コンサートのリハーサル中に銃撃、その後世界的に活躍するも、35才で体調に異変、悪性の脳腫瘍と診断。翌年死去

 なんなんだこの不幸は。

 ライブビデオの中のボブに笑顔はない。苦悩する哲学者のような表情で、体を揺らしながら淡々と歌い続ける。そこに、不幸から生まれ出したはずの鬱憤(うっぷん)や呪詛(じゅそ)、怒り蔑(さげす)み、開き直り、一切のネガティブな要素はない。それの代わりにフワフワとしたレゲエのリズムにのるのは、苦しみの中から花開いたやさしさだった。

ボブ・マーリー
シンガーソングライター

大谷中学・高等学校
創立150周年記念HP「如是我聞」
より
著名人 2025 12