暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 現代語の「執着(しゅうちゃく)」は「強くこころをひかれ、それにとらわれること。深く思い込んで忘れられないこと」で、仏教語の「執着(しゅうじゃく)」は、「事物に固執し、とらわれること」です。どちらも似ていますが、特に〈真宗〉で否定的に語られる「執着」は、「自力の執着」です。自分のこころに執われて〈真実〉が見えないこころです。なぜ見えないかと言えば、それは自分の「発想」を固く信じ、その「発想」そのものが問われないからです。それを親鸞は「罪福信(ざいふくしん)」と呼んでいます。

 親鸞は「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」で、次のように詠っています。「不了仏智(ふりょうぶっち)のしるしには 如来の諸智(しょち)を疑惑して 罪福信じ善本(ぜんぼん)を たのめば辺地(へんじ)にとまるなり」と。解説すればこういうことでしょう。仏さんの智慧(ちえ ※)を知らないのには理由がある。それは如来を疑惑しているからだ。つまり自分のこころで、「こういうことをすれば罪となり、こういうことをすれば福となる」と判断して念仏を利用しているからであり、そういう理由で、〈真実〉の浄土には生まれられないのだと。
 如来の智慧を疑うには、疑うだけの理由があるのです。それは「自分の功利心」、つまり「罪福」を信じているからです。もっと言えば「自分のこころ」を信じているので、如来を信ずる余地はありません。親鸞は、いままで如来を信じていたつもりでいたけれども、それは如来を信じているのではなく、実は「自分のこころ」を信じていただけだったと知らされたのです。

智慧
知識や教養を表す知恵とは異なり、自分では気づくことも、見ることもできない自らの姿を知らしめる仏のはたらきを表す。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 06