自分の人生を満足のいくものにしたい、これは誰もが願っていることでありましょう。そのために努力をし、幸福を手に入れることに一所懸命になっているのが私たちであります。ところが現実は、自分の思い通りには動いてはくれません。それどころか、次から次に問題は起こってきます。その意味で、私たちの努力のほとんどは、問題が起こらないように前準備をしたり、起こった問題の処理に費やされていると言ってもよいでしょう。しかし、その努力は本当に幸福を約束するものでしょうか。
自分が病気になった場合を考えてみてください。軽い病気ならば、治療することも可能でしょう。でも、重い病気、ましてや治療法がないと言われる病気にかかったら、どうでしょうか。どうしてこんな病気になったのかと、いくら過去を振り返ってみても、病気を取り除けるわけではありません。病気を憎むことは、病気にかかった自分を憎み、病気である自分の人生を憎むことになります。あえて病気を取り除こうとすれば、自分が生きていること自体を否定するよりほかありません。
これは、吉凶禍福(きっきょうかふく)にとらわれている人間の姿を教えようとする釈尊(しゃくそん/お釈迦さま)の言葉です。自分に都合のよいことばかりを追い求め、お互いに競い合い、しかも自分のしていることを正しいと信じ込んで疑わない生き方が見据えられています。
わざわい(凶・禍)を取り除き、幸福(吉・福)を招き寄せようとする発想には、問題のある人生は悪いものという見方が根にあります。それは本当に確かでしょうか。そういう物の見方を問い直してみる必要があるのではないでしょうか。でないと、善悪、優劣、有用無用というものさしですべてのことを計り、ついには、生きる価値の有無までを論ずることにすらなっていきます。結局はお互いに傷つけ合うことにしかなりません。
吉凶禍福を競い合うことがどれほど痛ましいことか、自分の物の見方だけを正しいと信じ込むことがいかに愚かであるか、そのことが釈尊から問いかけられているのです。
『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』
大谷大学HP「きょうのことば」1997年6月より
教え 2023 10
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「慚愧(ざんき)」は「自らおかした悪行を恥じて厭(いと)い恐れること。慚は自らをかえりみて恥ずかしく思うこと。愧は他人に対して恥ずかしく思うこと」(『岩波仏教辞典』)です。ひと昔前は、「世間様に顔向けできない」などという言葉があったように、「世間」という基準が倫理を支えていました。しかし、現代では「世間」という意識も薄くなり、倫理基準が曖昧になりました。そもそも、倫理の基本は何かと言えば、「自分がしてほしくないことを、人にしてはいけない」ということに尽きるようです。
さて、「慚愧」で思い起こされるのは、『涅槃経(ねはんぎょう)』に出てくる阿闍世王(あじゃせおう)のお話です。父王を殺した罪に怯え、悩んでいた阿闍世に対して、友人である耆婆(ぎば)が、次のように言います。「「慙」は人に羞(は)ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧(むざんき)」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生(ちくしょう)」とす。」(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』信巻)と。
「慚愧」は自分に対して、そして社会に対して恥ずかしいと思うことであり、もしこのこころがなければ、それは人間以下なのだと。耆婆は罪に怯える阿闍世を、「あなたは人間である」と褒め、このこころがある故に苦悩しているのだと共感します。「慚愧」のこころが、人間に踏みとどまれる最後の砦(とりで)だと言うのでしょう。しかし、このこころがあるために阿闍世は苦しむのです。確かに「慚愧」は、人間であることの証明ですが、このこころのままでは救いには至れません。
阿闍世は耆婆に導かれて釈尊(しゃくそん/お釈迦さま)に出会います。そして、「慚愧」から「懺悔(さんげ)」へと深まっていくのです。「慚愧」とは、自分がした過去の間違いを悔い改めようとするこころですが、それは、罪を犯した自己を裁き、罪なき者になろうとするこころでもあるのです。『歎異抄(たんにしょう)』で言えば、それは「自力のこころ」です。できれば犯した罪を消し、善なるものとなって救われようとする「善人根性」です。釈尊に出会った阿闍世は、やがて地獄に行っても後悔しないという「無根の信」を得ていきます。これが「慚愧」から「懺悔」への翻身(ほんしん)です。もはや自分の犯した罪を、帳消しにしようとする思いが破られ、罪と一つに同化したのです。それは、この世のすべての苦悩するものが救われたとしても、私はその一番最後に救われるものだという確信です。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 10
坂東性純(ばんどうしょうじゅん)という先生がいらっしゃいました。
生前、とある研修会を開催するにあたり、私が先生の送迎を行うことになりました。いい機会と思った私は、日頃から疑問に思っていたこと、分からないことを尋ねてみました。しかし、先生は「そういうことが分からないんですね。素晴らしいですね。」とおっしゃるばかりで、車は目的地に到着してしまいました。少し消化不良のまま、研修会に臨んだ私ですが、そのお話のなかで先ほどの私の問いに応えてくださった、と思えるお話をされたのです。
その時のお話が書籍化されているので、ご紹介いたします。
“人を躓(つまず)かせるものは、往々にして立ち上がらせるものと同一なのです。ですから「その問いを大切にいたしましょう」というのが、私が最近、自他共にご縁のある方にもお話をし、自分自身にもいつも言い聞かせていることです。自分を悩ませている問題しか自分を立ち上がらせる御縁はない。これを避けて通ったら悩みは続くばかりというように思います。
ですから「問いを抱えて生きましょう」ということです。「問い」が大事なのです。「問い」こそは大きな宝物なのです。沢山の宝物、豊かな宝物を私に与えて下さる貴重な、あるいは唯一のご縁と言ってよいかと思います。「このことが分からない」という疑問を抱き続けて生きること。これ以外に私どもの突破口はないのではないでしょうか。”
先生はこうおっしゃったんです。問いが大事だということなんですよね。問いを抱えて生きると。これは宝物だとおっしゃるんです。親鸞聖人の言葉に「しばらく疑問を至(いた)してついに明証(みょうしょう)を出(い)だす」(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』「別序」・『真宗聖典』p.210)という言葉があります。親鸞聖人もしばらく自分の問いを抱えて、そして答えに出会っていかれました。それは誰にも同じような答えではなくて、自分にとっての問いと答えに自身で出会っていくということでしょうか。それが生きるということだと、こう教えていただいたような気がいたします。
小林 尚樹氏
真宗大谷派 光明寺住職(東京都江東区)
首都圏慶讃法要特設サイト記念法話より
法話 2023 10
聖徳太子は「和をもって貴しとなす」とおっしゃっています。和という漢字の元(龢/わ)は異なる音の笛を紐(ひも)でつないだものです。意見の違う人が集まり、そこに調和を作る、それが和です。全員同じ意見にする必要がない。
能にはシテ、ワキ、そして大小の鼓や太鼓、そして笛がいます。これが全員違う流派なんです。一緒に稽古もしないし、話し合いもほとんどしないんです。演劇の人はみんな議論をしますが、能の場合、二日前に「申し合わせ」といって一度通すことはしますが、だからと言って皆の意見や解釈を合わせることはしない。まさに「和」ですし、「あわいの力」です。
親鸞聖人にも「清風宝樹(しょうふうほうじゅ)をふくときは いつつの音声(おんじょう)いだしつつ 宮商(きゅうしょう)和して自然(じねん)なり」という和讃(※)がありますね。宮と商は音階のことで、ドとレのような不協和音になる音です。ところが親鸞聖人は普通は和さないものを「和して」とおっしゃっている。そして「自然なり」と。面白いですね。
- 和讚
- 親鸞が人々に親しみやすくつくった詩
安田 登氏
能楽師
真宗会館広報誌『サンガ』182号より
著名人 2023 10