蓮如上人(れんにょ ※)が書かれたお手紙が『御文(おふみ)』として残されています。浄土真宗ではお通夜の読経後に、蓮如上人の『御文』に収められている「白骨(はっこつ)の御文」が拝読されます。その中に「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕べには白骨となれる身なり」という一文があります。朝は紅い顔、つまり生きていても、夕べ(夕方)になったらこの命は終えているかもしれない、何時この命が終わっていくかは、誰にもわからないということが教え示されています。
そしてこの文の冒頭では、私たちがどこに立って生きているのか、それを「浮生(ふしょう)」という言葉で問いかけています。「浮生」ですから地に足がついていない、私たちが根なし草であると言っています。
私たちは地に足がついていると思い込んでいるので、「自分は正しい」と無意識に思っていますが、実は私中心の心の上に立っているというのが本当の姿なのでしょう。自分が善いと思うものは受け入れ、悪いと思うことは排除する。「浮生」とは、そういう私たちの姿を言い表しています。
人が集まるところには、悲しいかな、そういう課題があります。自分にとって都合の悪い人はいないほうが善いとなってしまう私たちがいるのです。この「白骨の御文」のお手紙は、そういう私たちを、もう一度、問い直すことを勧めてくださっています。
生活が順風満帆の時は、問い直す、見つめ返すということが、私たちにはなかなかできません。行き詰まったり、悲しい出来事に出会った時、私の人生の意味が問い返されて来ます。身近な人が亡くなるという時もそうでしょう。改めて私たちに、一番大事なことは何なのかと問いかけてくるのです。
- 蓮如(1415~1499)
- 室町時代の浄土真宗の僧侶
『御文』(蓮如)
海 法龍氏
首都圏教化推進本部員
真宗会館 終活カレッジ
「仏教的終活のススメ―何を求めていきるのか」より
教え 2022 02
「安心(あんしん)」と読めば「心配や不安なことがない状態」ですね。しかし〈真宗〉で「安心(あんじん)」と読めば、「他力の信心」のことです。つまり「他力」ですから、阿弥陀(あみだ)さんが私に「信ぜよ」とはたらきかける「心」のことです。決して、自分の内面に溜め込むようなこころではありません。自分のこころは喜怒哀楽に翻弄されて、一時も「安心」はありません。阿弥陀さんが「信ぜよ」と命令を下されるとき、その「信ぜよ」という言葉に「安心」が乗り移ってくるのです。
もし「安心」が獲得されてしまい、揺れることのない固定的な「安心」であれば、それは「安心」とも言えません。『歎異抄(たんにしょう)』(第九条)で、弟子の唯円房は、信仰がマンネリ化してしまい「安心」が吹っ飛んでしまったと告白します。それに対して師の親鸞は、「安心」がなくなったからこそ頼もしく有り難いと答えます。
「安心」を奪うものは煩悩(ぼんのう)のはたらきですが、この煩悩に狂わされるものをこそ救い取ろうと阿弥陀さんは関わって下さるのだ。だから、むしろ「安心」の揺らぐことが救いの確実な証明であり、有り難いのだと言うのです。
ここまで来ると、私達が「安心」という言葉に持っている印象がだいぶ変わってくるのではないでしょうか。「安心」は一回獲得すれば一生涯失うことがない「安心立命」の境地のように思われますが、そうではないのです。揺れ動いているからこそ本当の「安心」なのです。揺れ動かして下さっているのも阿弥陀さんです。これが私達に関わって下さる阿弥陀さんの具体的な姿だったのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2022 02
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私達は、その時々を一生懸命に生きているつもりでしたが、生きるという意味あいは、その場面場面によって、くるくると変わるものだと見てとれます。これで一生が終わってしまうのかと思うと、何かつまらない気がします。この空しさを感じるのは、私の頭ではなく、いのちからのうながしかも知れません。
三帰依文(さんきえもん ※)の冒頭に「人身受けがたし」とあります。人として生まれることは、とても難しいことだと言っています。しかし、私達は現に生まれています。せっかく、生まれさせていただいたのですから満足したいものですね。こうしてみると、私達の頭で考える「生きがい」と、いのちが願っている生きがいとは、違うもののようです。そこで私は「生きがいや生きる意義の為に生きるのではない。生きがいや生きる意義があるから生きるのだ」と考えてみたいと思いますがいかがでしょうか。
お母さんが子どもに「勉強をしなさい」と口うるさく言います。そんなお母さんに子どもも応戦します。「ねー、お母さん。どうして勉強をするの」――。もちろん、お母さんは自信をもって答えました。「良い中学校へ行く為よ」。子どもは又聞きます。「どうして良い中学へ行くの」「それは、良い高校へいく為よ」。子どもは「ふーん」といいながらも、また聞きました。「どうして良い高校へ行くの」「それはもちろん、良い大学へ行く為よ」。お母さんは、子どもへの期待と重なって力強く答えました。子どもはまだ聞きます。「ねー、どうして良い大学へ行くの」「それは、良い会社に入る為よ」。お母さんはうっとりして答えました。「へー、どうして良い会社へ入るの」「それは、偉くなる為よ」。お母さんはにっこり笑いました。「ねー、お母さん、偉くなるとどうなるの」。お母さんはすまし顔で言いました。「偉くなったら、死んだときに、たくさんの花輪が並ぶのよ」―。
私達には、未来の予知能力など無いのですから、こうなるはずと言っても、それは作りごとでしかありません。そんな不確かなことに気をとられないで、「生きがいや生きる意義があるから生きるのだ」ということに目を向けてみませんか。「生きがい」の意味を岩波の国語辞書で調べてみると、「生きているだけのねうち」と書いてありました。私達が、あせって生きがいを見つけなくても、いのちの誕生というところに注目をしていくと、生きているだけのねうちが見えてくるのではないかと思います。
- 三帰依文
- 「仏」「法」「僧」という三つの宝(三宝)を大切にするという仏教徒の誓いの言葉
靍見 美智子氏
アソカ幼稚園教頭・真宗大谷派 西敎寺前坊守(神奈川県)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
法話 2022 02
人間は、自分たちがこの地球上で、一番偉い生き物だとどこか思っている傾向がありますよね。だからどんな生き物よりも生き延びなければならない、みたいな。それは本当に横柄な考え方だと思います。知性や知能があるからって優れていることにはなりません。知恵を使って、私たちはさまざまな環境破壊のきっかけを作ってしまっているのですから。
そう考えると、動物や昆虫観察をするみたいに、少し立ち位置を変えて、人間はこんなことをしてしまう生き物なんだって認識することが必要ですよね。だから、常に視野を広げて、色んなことを知ることが大事になってくる。世界の様々な価値観に触れ、歴史をたどることが、目の前の課題に対するヒントになると思っています。
ヤマザキマリ氏
漫画家・文筆家
真宗会館広報誌『サンガ』173号より
著名人 2022 02