僧侶の法話

言の葉カード

 私達は、その時々を一生懸命に生きているつもりでしたが、生きるという意味あいは、その場面場面によって、くるくると変わるものだと見てとれます。これで一生が終わってしまうのかと思うと、何かつまらない気がします。この空しさを感じるのは、私の頭ではなく、いのちからのうながしかも知れません。
 三帰依文(さんきえもん ※)の冒頭に「人身受けがたし」とあります。人として生まれることは、とても難しいことだと言っています。しかし、私達は現に生まれています。せっかく、生まれさせていただいたのですから満足したいものですね。こうしてみると、私達の頭で考える「生きがい」と、いのちが願っている生きがいとは、違うもののようです。そこで私は「生きがいや生きる意義の為に生きるのではない。生きがいや生きる意義があるから生きるのだ」と考えてみたいと思いますがいかがでしょうか。

 お母さんが子どもに「勉強をしなさい」と口うるさく言います。そんなお母さんに子どもも応戦します。「ねー、お母さん。どうして勉強をするの」――。もちろん、お母さんは自信をもって答えました。「良い中学校へ行く為よ」。子どもは又聞きます。「どうして良い中学へ行くの」「それは、良い高校へいく為よ」。子どもは「ふーん」といいながらも、また聞きました。「どうして良い高校へ行くの」「それはもちろん、良い大学へ行く為よ」。お母さんは、子どもへの期待と重なって力強く答えました。子どもはまだ聞きます。「ねー、どうして良い大学へ行くの」「それは、良い会社に入る為よ」。お母さんはうっとりして答えました。「へー、どうして良い会社へ入るの」「それは、偉くなる為よ」。お母さんはにっこり笑いました。「ねー、お母さん、偉くなるとどうなるの」。お母さんはすまし顔で言いました。「偉くなったら、死んだときに、たくさんの花輪が並ぶのよ」

 私達には、未来の予知能力など無いのですから、こうなるはずと言っても、それは作りごとでしかありません。そんな不確かなことに気をとられないで、「生きがいや生きる意義があるから生きるのだ」ということに目を向けてみませんか。「生きがい」の意味を岩波の国語辞書で調べてみると、「生きているだけのねうち」と書いてありました。私達が、あせって生きがいを見つけなくても、いのちの誕生というところに注目をしていくと、生きているだけのねうちが見えてくるのではないかと思います。 

三帰依文
「仏」「法」「僧」という三つの宝(三宝)を大切にするという仏教徒の誓いの言葉

靍見 美智子氏
アソカ幼稚園教頭・真宗大谷派 西敎寺前坊守(神奈川県)

ラジオ放送「東本願寺の時間」より
法話 2022 02