2022年卯月(4月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 親鸞は、平安時代末期の1173(承安3)年に朝廷に仕える役人の家に生まれ、1181(養和元)年に9歳で出家して、当時の仏教の総合大学ともいうべき比叡山延暦寺に入山します。その年は、大飢饉や地震、疫病の流行などにより、都に死者があふれていた時期。兄弟もみな出家しており、時代に翻弄されての出家であったのかもしれません。しかし、わずか9歳の親鸞は、その道をまっすぐ歩もうとしたようです。

 親鸞の出家の式を行ったのは、後に天台座主(てんだいざす ※)となる慈円でした。伝承によれば、そのとき時間が遅かったため、慈円が「出家の式は明日にしよう」と告げたところ、幼い親鸞が次のような歌を詠んで周囲を驚かせたというのです。
 人の命を桜花に喩(たと)え、「必ず明日があるとは言えないから、今すぐ出家させてほしい」という願いを込めたこの歌を聞いて感心した慈円は、すぐに出家の式を行ったと伝えられています
 けっして、自分の欲望を満たすためだけに急がせたわけではないでしょう。思いたつ心が起こるその背景と、無常なる世の様を、自らに引き当てて味わいたいものです。

天台座主
天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。

親鸞

月刊『同朋』2017年7月号(東本願寺出版)より※一部加筆
教え 2022 04

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「開発」を「かいはつ」と読めば「天然資源などを人間の生活に役立つようにすること」ですが、「かいほつ」と読めば仏教語です。その意味は「他人をさとらせる、信心を引き起こす」などがあります。仏道を求めるこころを「菩提心(ぼだいしん)」と呼びますが、菩提心が引き起こされるまでには、さまざまな「開発」が関わっています。
 親鸞の場合、師の法然(ほうねん ※)と出遇(あ)わなければ、〈真宗〉は開かれなかったでしょう。いわば法然に「開発」されたのです。もっと遡れば、比叡山で学ばれた20年間も「開発」でしょう。親鸞は二十九歳のとき、「雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す」(『教行信証』後序)とおっしゃっています。それまで学んできた20年間を「雑行」と見て、それを「棄て」たのだと解釈することもありますが、棄てるものがなければ、棄てることも叶いません。棄てるべきものが縁となって「本願に帰す」ことができたのですから、それも「開発」の手助けだと受け取れます。いずれも〈真宗〉に開かれた〈いま〉という時点から振り返ったときに、様々な出遇いが「開発」の手助けだった、ひとつも無駄はなかったと、初めて受け取ることができるのです。

 本願寺第八代の蓮如(れんにょ ※)は「宿善開発(しゅくぜんかいほつ)」ということを言います。「宿善」とは、「過去世で培われた信仰的感性」のことで、〈いま〉信心がいただけるのは過去世で培われた「宿善」のお蔭であり、それが〈いま〉「開発」されたと受け取っています。「他力の信心」は、とてもこの世にいる間だけで培われるものではない、過去世の何代にも渡って培われてこなければ、自分には起こることがなかったと受け取っているのです。
 法話の前に皆さんと唱える「三帰依文(さんきえもん)」には、「無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも値遇(あいあ)うこと難(かた)し」とあります。ここでは「百千万劫」という〈永遠〉とも思える時間が「開発」の時間だったと振り返っています。「他力の信心」とは、それほどに重く、深いものだと教えられます。

法然(1133~1212)
日本の僧で浄土宗の開祖
蓮如(1415~1499)
室町時代の浄土真宗の僧侶

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 04

僧侶の法話

言の葉カード

 人間は、どうしても、自己主張、自己執着の自分の思いを破る言葉に、出会わねばなりません。つまり、「本尊」を見つけなくてはなりません。それが、宗教の存在する意味だと、私は理解しています。
 本尊を、本当に尊いことを見つけられずに、自分の思いを本当としていく限り、どうしても最後には、思い通りにならなかったことに、愚痴(ぐち)を言い、自分で、自分を見捨てなくてはならなくなります

 現代に生きる私たちは、あまりにも、他からの評価にとらわれています。役に立つものは受け入れるけれど、そうでなければ、切り捨てる。間に合うものは許すけれど、間に合わなければ、排除する。すべてのものを、すべての事を、たった2つのものさしでしか見ない小型人間、狭い視野でしか物事を判断しない小さく縮こまった人間に陥っています。
 そのものさしが、いのちのレベルにまで使われるようになりました。自分の手の出せぬ領域にまで、評価のものさしが入りこんでしまっています。その結果、せっかくこの世に誕生させてもらったのに、誰とも本当につながれず、孤独に陥って、心が傷つき、自ら死をえらぶ人が後をたちません。今、いのちがあなたを生きています。思い通りにならない、と苦しんでいるのは、本当でないものを、本当としているからです。役に立たないと苦しんでいるのは、自分のすべき仕事を忘れて人の仕事ばかり気にかけているからです。

 あなたが、悩み、苦しんでいるのは、あなたの本体であるいのちから、その事を知らせる、信号です。無量寿(むりょうじゅ)のいのちは、いつも「あなたはあなたに成ればいい」「あなたはあなたであればいい」と願い続けています。立ち止まって、耳をすませてください。
 「今、いのちがあなたを生きています」

渡邉 尚子氏
真宗大谷派 守綱寺前坊守(愛知県)

ラジオ放送「東本願寺の時間」より
法話 2022 04

著名人の言葉

言の葉カード

 育児というのを大人が一方的に子どものために何かしてあげることだと捉えると、子どもの育ちへの全責任を大人が背負っているとか、大人がこうしてあげれば必ず子どもは育つとか、逆にこうしないと子どもの発達がうまくいかないといった発想になりがちです。しかし、育児とは大人と子どもが共同で構成するものであって、大人もまた子どもに教えられながら、関わりをうまく調整していくことが最も大切なのです。

 よく話題になることですが、育児や保育の現場で大人が子どもの発するシグナルを見落としたり、読み違えてしまうといったことがありますね。しかしそうした失敗が悪いことかというと、そうでもなくて、結局はその失敗の後にどういう対応が続くかということが重要なわけです。例えば、子どもが何かしてほしいと思って泣いても、大人が何も対応しなかったらどうするか。もちろん、不満が高まってより大声で泣くでしょうが、次には大人が気づいてくれるよう、もっと巧みにコミュニケーションを取ろうとするかもしれない。これは、子どもにとって貴重な体験です。また、大人の方も子どもが発するシグナルを読み違えたことに気づいて、修復する中で子どもとのコミュニケーション能力を高めていくわけです。
 そんなふうに、失敗の後の修復をとおして、子どもも大人も育っていく。そういう意味で、育児とは子どもと大人の共同構成なのです。

遠藤 利彦氏
東京大学大学院教授

月刊『同朋』2017年5月号(東本願寺出版)より
著名人 2022 04