仏教は、欲望に内在するこの「もっと、もっと」という本性に気づき、先ずそれを止めるために「少欲(しょうよく)・知足(ちそく)」ということをもって、生きる出発点としてきた。「少欲」とはいまだ得られていないものを欲しないことであり、「知足(足るを知る)」とはすでに得られたものに満足し心が穏やかであることである。唐の時代の代表的な仏教僧である玄奘(げんじょう)は「知足」をさらに踏み込んで「喜足(足るを喜ぶ)」と訳し、「少欲・喜足」とする。このほうが内容に適った訳語ではあるが、一般には「知足」が受け入れられている。
私たちは、物や知識や名誉・地位などの中、すでに得ているものに対してはもっと良いもの、もっと多くのものを欲しがり、いまだ得ていないものに対してはそれを得ようと欲する。したがって、欲望とは現状に満足しないことと表裏の関係にあり、逆に言えば、満足を知り、喜ぶことによってこそ欲望が減少するのである。「少欲知足」と言われる所以である。
「少欲知足」は、これまでは何か高徳でストイックな生き方を示す語として敬遠される傾向にあった。しかし、成長や進歩を考え直さなければならない今こそ、自分自身や社会が真剣に受け止めるべき語であろう。
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』
兵藤 一夫氏
大谷大学名誉教授
大谷大学HP「生活の中の仏教用語」(『文藝春秋』2012年4月号掲載)より
教え 2021 06
世間では、「嘘も方便」などと使われますが、「方便」はもともと仏教語です。意味は、私たちを真実の仏法(ぶっぽう)に導く手だてです。それは何も仏さまの説かれる教えに限ったことではありません。実は私たちの生活全体が、仏さまが真実を示すための方便(手だて)なのです。生活と仏法は別々のことではありません。生活そのものが仏法です。
仏さまは、「私たちは何のために生きているのか」という問いを突き付けます。こういう問いを投げかけることによって、真実の仏法に目覚めてほしいと願っているのです。これは、この世を生きる一人ひとりへの問いかけですが、誰にでも当てはまるような便利な答えはありません。みんな顔が違うように、答えも違います。答えは一人ひとりが出さなければなりません。そのためにお釈迦さまや諸師方の言葉が残されているのです。
お釈迦さまは「犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め」(『ブッダのことば』)と、どこまでも私たちを励まして下さいます。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2021 06
現代の社会では「非常識」であることや、「異なり」というものは認められないのです。どうやら私たちの社会では「同化」が優先されるようです。では、どうしたら本当に「異なり」を認めつつ共に生きることができるのか。これは肯定論では駄目なのです。一度自分の思いが破られ、しかも破られるがゆえに出遇(あ)える世界に出遇っていくという経験をしないと成立しないのです。
ところが、私たちは肯定論を積み重ねて常に成功し続けるというかたちでしか、成長を経験することができなくなっています。そしてその成功の積み重ねを価値だと思い込んでいます。ですから今は、小学校で失敗しない、中学で失敗しない、高校で失敗しない、大学受験で失敗しない、就職で失敗しない、職場の中で失敗しない、あらゆることに失敗なく成功してきた人たちが、やがて社会の頂点に立っていくわけです。途中で一度でも躓(つまず)けば、もう道から外れていってしまうのです。最後まで生き残るのは、一度も失敗しなかった人だけです。しかし、そうした人たちが本当に幸福なのかといえば、少しばかり疑問を抱きます。
社会が貧しい頃には、互いに助け合うことが当たり前でした。しかし、経済力がついてくると、持てる者と持てない者との格差が激しくなり、既得の価値を囲い込むようになります。「勝ち組」「負け組」などという言葉が、無批判に用いられるようになった頃から、勝った者は、苦悩する人間を救う大きな世界に触れることなく負けた者を排除して、狭い世界の倫理や価値を超えることができなくなっています。
ですから、私たちはどこかで自らの思いが破られ、そして破られることによって、自己を超えた広大無辺(こうだいむへん)な世界に出遇っていくチャンスを持たなければいけないのです。そういう破られるチャンスに、もっと自由でいていいのだと、私たちは教育現場で学生たちに伝えなければならないと思います。「平気だよ、どんなに失敗したってあなたたちにはちゃんと出遇えるものがあるんだよ」「そのほうが大きな出遇いに繋がっているんだよ」と、自由に失敗できるチャンスを与えていくことが私たちの大切な役割ではないかと思います。
破られる者であることにおびえる必要はありません。それは人間の赤裸々な姿に過ぎないのですから。善人であることも誇る必要はありません。それは人間の常識による善に過ぎないのですから。
浅野 玄誠氏
同朋大学 元学長
『非常識のススメ』(東本願寺出版)より
法話 2021 06
当たり前のことを当たり前にしていないか、ということを改めて知らされるこの言葉。一見すると当然のように思われる手順であっても、沸かし方や点(た)て方によっては味わいが変わる。飲む相手のことを思いながら「ただ」、「一心に」という姿勢も含めて、その本義を知りなさいということなのでしょう。
最近の住宅(住まい)は、和室がない家も多くなっています。ともなって、床の間もなくなり、昔でいう仏間(ぶつま)もない家が多いです。つまり、仏壇を置く家が少なくなりました。ある識者は、床の間や仏壇のような無条件に手を合わせたり、思いを馳せる場がないことを「聖空間の消失」と言い表しています。そうするとどうなるか。「場」がないと「時」がありません。一歩立ち止まって物事を考えることがなくなるのです。
忙しく生活していると、「一心に」や「ふたごころなく」という場面が少なくなります。効率化や生産性の重視に偏れば、他者への思いやりすら削られます。熱いお茶を飲みながら物事の本質を確かめる「場」や「時」も大切です。
お茶の世界の奥深さから生き方の根本を学ばされます。
千利休
茶人(日本)
「利休道歌」より
著名人 2021 06