僧侶の法話

言の葉カード

 人間は、物事をありのままに見ることはできないんですね。必ずそこに自己関心が雑(ま)じるんです。しかも、やっかいなことに、「自分は見た」という心にとらわれ、その心を絶対化していくんです。それを親鸞聖人は「驕慢(きょうまん)」とおっしゃいます。親鸞聖人があらわされた『正信偈(しょうしんげ ※)』の中に出てまいります、「邪見驕慢(じゃけんきょうまん)」です。見たら見たことに執(とら)われ、聞けば聞いたことに執われ、経験すれば経験したことに執われていく。そして、そのことを絶対化していく。たとえば、自分が経験した苦労に執われ、その経験を絶対化していきますと、今度は、苦労していない人を見下すということがあります。あるいは、「わたしの苦労に比べたら、あなたの苦労なんてたいしたことない」というように、随分、傲慢(ごうまん)な姿にもなります。
 ある先輩が「自分は迷いを超えた、自分は迷いを卒業した、なにをかいわんや、これが迷いの絶頂である」と聞かせてくださったことを思い出します。自分自身の執われの心が、人を遠ざけ、人との関係を切っていくんです。もっとはっきり言えば、執われの心が、人と人とを対立させていくんです。ですから、考えてみれば、一番やっかいな対立は、宗教を信じる心と心の対立かもしれません。
 『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう ※)』というお経があります。そこに、「これより西方(さいほう)に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰(い)う」というお言葉が出てまいります。つまり、「十万億もの仏土」、仏土といいますのは、仏さまの世界です。十万億もの仏さまの世界に出遇(あ)わないと極楽には行けないんだということが説かれているんです。十万億ですよ、気の遠くなる数字です。つまり、執われの心を限りなく破ってもらう、破ってもらうとは、「邪見驕慢のわたしの姿」に気づかせてもらうということです。その終わりなき歩みを、お念仏によって賜るのです。

正信偈
正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。
仏説阿弥陀経
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

荒山 信氏
真宗大谷派 惠林寺住職(愛知県)

『大きい字の法話集』(東本願寺出版)より
法話 2020 11