僧侶の法話

言の葉カード

 現代をどういう時代として見るのかは、この時代をどう生きるのかということでしょう。
 見るということは、時代の在り様を人の上に見て人の在り様を吾(わ)がこととして感じとるということ、人々と共に生きようとすることでなければなりません。
 見るということには、世間で言う傍観(ぼうかん)するということではないのです。傍観は、現状を容認し、そのひずみを無視するということです。見ることで見る者の責任が問われ、責任を生きることで行動して初めて見たことになるのです。現代を見るとは、現代をどう生きようとするのかということでしょう。
 時代と人間の関係は、時代が人間の生き方を問うということで、主体は人間の側ではなく時代にあります。だからこそ、何を信じ、何をこころの中心にして生きるかが、時代から問われます。何をして良いのかがわからないというのは、時代が見えないから、なす術が見つからないからではなく、何を信じ、何をこころの中心にして生きるのかが見えていないのです。
 もしあなたが、暴力よりも和解を、殺し合うことより許し合うことを、排除することより共に生きていくことを心の底から望むのなら、いつの時代でもあなたの行動がどうあるかはすでに決まっています。
 あなたは、すでに仏教を生きようとしているからです。仏教徒として生きればいいのです。仏教徒は、時代からの問いかけを問われた者の責任で、時代を生きる者なのです。

祖父江 文宏氏
児童養護施設 暁学園元園長

『悲しみに身を添わせて』(東本願寺出版発行)より
法話 2020 02