私たち一人一人は、もともと考え尽くせないほどの無限の用(はたら)きによって成り立っています。このことに思いが及ぶならば、実は私たち一人一人には既に無限の宝が与えられていることに気づくはずです。それにもかかわらず、私たちは、自分が今、ここに生きてあることをあまりにも当然のこととしているので、それだけでは満足できないような心を持って生きています。普段の生活の中で、自分と他人を比較して、なんとなく何かが足りないという感情に悩まされることは、誰にとっても身近なことでしょう。それ故、私たちはその足りない「何か」を求めて日々苦労しています。
しかしよく考えてみましょう。何かが足りないという感情は、裏返せば足りないものが何であるのか分からないということと同じなのではないでしょうか。自分が何を求めているのか分からなければ、どのようなものを手に入れても決して満たされることがないのは当然でしょう。このようにして求めても求めても決して満たされることのない生き方を「空しい」と言うのでしょう。
本当は宝の山である人生を空しく過ごさねばならないのは何故なのでしょうか。この一文はそこまで触れていませんが、私たちが自分の勝手な考えや都合にしばられて、本当は無限の用きによって成り立っているという自分自身の事実を忘れてしまっていることにあると言うのです。そしてここに立って初めて、誰にも代わることのできない、また代わる必要のない人生の発見があると教えているのです。
『往生要集(おうじょうようしゅう)』(源信 ※)
- 源信(942~1017)
- 日本の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
大谷大学HP「きょうのことば」1997年12月より
教え 2020 02
もともと「世間」も「世界」も仏教語です。その世間を親鸞聖人は「火宅無常(かたくむじょう)の世界」と表現します。怒り腹立ち妬(ねた)み嫉(そね)みが渦巻く「火事の家」です。その世間から脱出したいと私たちは望みます。そこから脱出するにはコツがあります。それには「火宅無常」をハッキリ「火宅無常」と映し出す鏡を持つことです。その鏡とは、阿弥陀如来(あみだにょらい)の光の鏡です。
その鏡があれば、「火宅無常」に巻き込まれず、静かで穏やかな自分に戻ることができるのです。それを親鸞聖人は
「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなうれば 三世(さんぜ)の重障(じゅうしょう)みなながら かならず転じて軽微(きょうみ)なり」(『浄土和讃』)
と詠います。「あらゆる仏徳(ぶっとく)の中で一番すぐれている南無阿弥陀仏を受け入れ、それとひとつになれば、過去・現在・未来の、思い通りにならないあらゆる問題も、必ずすべて転換されて軽微(けいび)なものになる」という意味です。これが「皆無」ではなく「軽微」と言われるところに味わいを感じます。
老・病・死という絶対的な不条理はなくすことはできません。ただ、阿弥陀さんの悲愛に触れるならば、苦悩を「軽微」なものとして受け取らせて下さるのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2020 02
現代をどういう時代として見るのかは、この時代をどう生きるのかということでしょう。
見るということは、時代の在り様を人の上に見て人の在り様を吾(わ)がこととして感じとるということ、人々と共に生きようとすることでなければなりません。
見るということには、世間で言う傍観(ぼうかん)するということではないのです。傍観は、現状を容認し、そのひずみを無視するということです。見ることで見る者の責任が問われ、責任を生きることで行動して初めて見たことになるのです。現代を見るとは、現代をどう生きようとするのかということでしょう。
時代と人間の関係は、時代が人間の生き方を問うということで、主体は人間の側ではなく時代にあります。だからこそ、何を信じ、何をこころの中心にして生きるかが、時代から問われます。何をして良いのかがわからないというのは、時代が見えないから、なす術が見つからないからではなく、何を信じ、何をこころの中心にして生きるのかが見えていないのです。
もしあなたが、暴力よりも和解を、殺し合うことより許し合うことを、排除することより共に生きていくことを心の底から望むのなら、いつの時代でもあなたの行動がどうあるかはすでに決まっています。
あなたは、すでに仏教を生きようとしているからです。仏教徒として生きればいいのです。仏教徒は、時代からの問いかけを問われた者の責任で、時代を生きる者なのです。
祖父江 文宏氏
児童養護施設 暁学園元園長
『悲しみに身を添わせて』(東本願寺出版発行)より
法話 2020 02
昨今、SNSの中やネット上、あるいはテレビからも、何かが起こった時には必ずといっていいほど「自己責任」という言葉が出ます。例えば、自死や過労死の問題でも、「それって自己責任だから」という言葉が安易に使われがちだと思うんです。
ジャーナリストという私たちの仕事に関しては、自己責任である面はとても大きいと思っています。自分の責任において情報収集をして、自分の責任においてどこに行くのかということを判断しますから。ただ、今の社会で使われている「自己責任」という言葉って、往々にして自業自得とほとんど同義で使われているように感じます。
苦しんでいるさなか、試練のさなか、ここを高みにして目指していたけれど、結果が違ったというときもあるかもしれない。でも、自己責任という言葉でくくって、「はい、そこで切り捨て」というふうになりがちではないかと思っています。そうではなく自分が身をまかせて寄りかかれる、何かオルタナティブな在り方というのはつくれないだろうかということは常々考えています。
これは私自身の身近な取り組みですが、引っ越しを考えている同世代の友達から「都内で引っ越そうと思っているんだけど」と相談を受けたら、徹底的に声をかけて全員近所にしちゃうということを心掛けているんです。どういうことかというと、これだけすぐに電話やネットがつながったとしても、やっぱり人間って人間を求めるような気がしていて。誰かが「死にたい」などと言ったときに、「ごめん。終電がない」と言うのか、「あ、じゃあ今から行くね」と言うのか。行くことができる距離にいるかどうかは、ある意味で決定的な違いだと思っています。緊急的でなかったとしても、“社会における生きづらさ”の問題を考えるうえでは、つながっている話だと思っています。
なので、とても身近な例ではありますが、そうやって「あなたと私」の距離感を物理的に作るということが、身近でできる一つの実践なんじゃないかなというふうに私は思いながら取り組んできました。
安田 菜津紀氏
NPO法人Dialogue for People副代表/フォトジャーナリスト
第14回「親鸞フォーラム」より
著名人 2020 02