僧意工夫

迷走しながら思いを綴る 
お坊さんのエッセイ

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 いつかは訪れる大切な人との別れ。それがいつやってくるかはわかりません。思いがけずに遭遇するものです―。


 その時は突然やってきました。若い頃から付き合いのある前職の職場の元同僚が亡くなったという知らせ。受けた直後は半信半疑で、信じられない気持ちと信じたくない気持ちが交差し、その日は何をするにも手につかない状況でした。あとから聞くと、体調不良による突然死だったそうです。

 お寺に身を置いている以上、「誰々が亡くなったのでお葬式を…」という連絡が門徒さん(檀家さん)から寺に入るのは当然です。お坊さんといえど人間ですから、驚きや悲しみや信じられない気持ちが毎回起こります。
 もちろん一人ひとりの人間の「死」に対する軽重はありません。手につかない状況だったのは、青天の霹靂(へきれき)という言葉以上の出来事だった、否、当たり前のごとく元気に過ごしているだろうという、私の勝手な思い込みが180度転換したからでしょう。


 お参りすることができた通夜での法話の一節です。

悲しみと同時に、彼との思い出が次々に溢れ出てくる。しかし、私が見ていた彼は「本当の」彼だったのか。私が都合よく「こういう人」だと解釈した彼ではなかったか。
先立たれた人間は、先立たれた人間のように振る舞う以外にない。仏さまとしての彼と横並びになり、これから対話していくしかない。(筆者の聞き書き)


故人とも関係が深かったからこその住職のご法話でした。


 「弔(とむら)う」という言葉の原点は「訪(とぶら)う」という言葉だそうです。
 いつかはやってくる親しい人との別れ、あるいは、近々に経験された人もいらっしゃるかもしれません。 一方通行的ではなく双方通行的な亡き人との対話とそのプロセスこそ、大切な弔いであり、故人を尋ね、故人に尋ねることなのかもしれません。

 見誤っていた一面、新しい一面の彼に出会い直す、そんな彼との対話を始めてみたいと思います。

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