僧意工夫

迷走しながら思いを綴る 
お坊さんのエッセイ

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 とある日のこと。電子レンジの調子が悪く「買い替えたら?」と私。すると町の電気屋に修理依頼すると坊守(※住職の連れ合い)。修理をしてもらったものの、また故障ぎみ。ネット通販すればすぐ買い替えられるのにと思いつつも、そのやりとりが3往復ほど続く。

 また別の日。本堂に届いていたWi-Fi(無線のインターネット回線)の接続具合が悪い。お寺の行事で使うのにと思いながら、小難しい機器説明書を取り出し悪戦苦闘。機器の買い替えもよぎりましたが、故障ではないことがわかり元通りに。ちなみにその際も、寺にいる人間同士で買い替えの問答が起こりました。。。(今回の私は買い替えない派)


 便利な毎日を過ごしてしまうと、不便な時にストレスがかかります。ある人いわく、便利な日常が当然となった時代は「待てない時代」とも言われます。
 例えば、物が壊れた、お腹がすいた、調べ物ができたなど、今の時代の感覚ではスマホを取り出してネットショッピングをしたり、デリバリーの配達注文をしたり、ネットサーフィンをすることで解決できます。修理にせよ、食べ物にせよ、情報収集にせよ、自分以外の人を介す必要はありません(作り手、運び手は除いて)。つまり、過程も何もないので、工夫する、想像する、人に聞く、我慢するということがない。それらの時間や行為は「煩わしい」ことなのです。
(とは言いながら、それに頼っている自分がいることもまた然り。。。朝起きて、飲みたいコーヒーをスマホ一つで注文、配達までしてくれる地域は羨ましい)


 人を介さないという社会は、同時に危うさもはらんでいるように思います。簡単に手に入ったり簡単に捨てられたりするのは「モノ」だけではなく、「ヒト」に対しても起こってしまいます。
 SNSなどの発達により、簡単に人とつながることができる社会となりました。しかし一方で、切り捨てる(られる)ことも容易となり、悲しいことに誹謗中傷や罵詈雑言(ばりぞうごん)が溢れています。「モノ」であっても「ヒト」であっても、「扱う」、または「関わる」人間の『人間力』のようなものが試されているのかもしれません。

 かつての夏目漱石の言葉が思い起こされます。
人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない(小説『行人』より)


 ちなみに、具合のよくない電子レンジは、現役で使わせてもらっています。

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