「世界」という言葉は、「ワールド」の翻訳語として受け取られている場合が多いようです。一般用語として使われていますから、これが仏教語だったとは気づきませんね。古代インドでは、想像上の須弥山(しゅみせん)という巨大な山を中心とした宇宙観で全世界を考えていたようです。
しかし仏教では、「ひとりの人間には、ひとつの世界がある」と教えます。ひとつの大きな入れ物のなかに、地球や世界があるという考え方は世間的です。宗教的には、ひとりにひとつの世界があるというのです。つまり、自我というものを国王として、見渡す限りを自分の領土(世界)として固執しようとするのです。自分に関係の深いものを近くに置き、関係の浅いものを遠くに置くという「自我の遠近法」をもって暮らしています。ひとりの人がここにいれば、そこにはひとつの固有の世界があり、別の人がいれば、また別の世界を持って生きているのです。百人いれば、百の世界が存在しているわけです。
ですから、ひとりの人間の死は、ひとつの世界の消滅でもあるのです。私たちはたったひとつの世界に住んでいるのだと思い込んでいるだけです。実存的に見れば世界は重層的に重なっているのです。その固有の世界をどのように創造してゆくのかということが、大切な課題となってきます。法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ ※)がさまざまな世界をご覧になって、独自の本願(ほんがん ※)の世界を創造されたように、私たちひとりひとりも永遠固有の世界を創りあげてゆかなければなりません。創造とは大それたことではありません。この一回限りの<私>の生を「生きる」ということなのです。
- 法蔵菩薩
- 『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』というお経に説かれる物語に描かれる菩薩。仏の教えに出遇ったことに喜び、自らも仏となって生きとし生けるものを救いたいと国王の地位を捨てて仏道を歩み、後に阿弥陀仏(あみだぶつ)となった修行者。
- 本願
- 全ての生きとし生けるものを救いたいと発された阿弥陀仏の願い
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
月刊『同朋』2003年5月号より
仏教語 2018 06