暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 世間では「釣り三昧(ざんまい)」「読書三昧」「ゴルフ三昧」等々、何かに夢中になっている状態を「〇〇三昧」といいます。三昧とは、もともと仏教語で「何ものかに心を集中することによって、心が安定した状態に入ること」という意味だそうです。このようにいわれると、なんだか自分とはかけ離れたことのように感じます。しかし、もっと身近なことのようにも思えます。
 「物忘れ」は老化現象ではなく「三昧」のなせるワザではないかと最近気づいたのです。冷蔵庫までやって来て、扉を開けて、「ええと? 何を取りにきたんだっけ?!」となる。これは普通「老化現象」で、歳のせいにされてしまいます。しかし、そうとばかりはいえないと思います。私たちの頭はいつも留(とど)まることなく動いています。身は一カ所に留まっていても、思いは留まっていません。ですから、冷蔵庫にビールを取りにいこうと思って、歩いている間に、頭は勝手につぎの思いに展開しているのです。ですから、実際に身が冷蔵庫に到着したときには、思いはそこにないわけです。それは「老化現象」でなく思いが深く「三昧」の状態にあるからこそ、身と時間差が生まれてしまうと解釈したらどうでしょうか。頭は身と異なり同時に二つのことをやるのです。見ながら考える、食べながら考える、話しながら考える。そういう意味では、頭はいつも「思考三昧」に入っているといえそうです。思考は思考自身のシステムによって動いています。自分の自由になるものではありません。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

月刊『同朋』2002年7月号より
仏教語 2018 07