「愚者になりて往生す」とは、親鸞が師である法然(ほうねん ※)から直接聞いた言葉です。親鸞が法然と出遇(あ)い、共に過ごすことができたのは29歳から35歳までです。ですから、そのわずかな期間、東山の吉水(よしみず)において法然から聞いた言葉が、大切な教えとして親鸞の心の中に残り続けていたことがここから分かります。そして今また、「愚者になる」ということの大切さを関東の門弟たちに伝えようとしているのです。
ここで言う「愚かさ」とは、教養の有無において語られる愚かさではありません。つまり、賢愚(けんぐ)という相対的な意味での愚かさではなく、人間である限り誰もが有する根源的な愚かさのことを指します。たとえば、欲望にとらわれて自分を見失ったり、自分にとって都合の悪いものを排除しようとして、他者を傷つけ悲しませたりするような愚かさです。状況によっては、悲しい結果を招くような言動をとってしまう、そこに人間の愚かさがあると言えるでしょう。
「愚者になる」とは、そのようにして生きる自分自身の愚かさをよく知るということです。そして、自分自身の姿に目を背けることなく、愚者の自覚を持つ者こそが、まことに生きる者であるということを述べているのです。
自分の愚かさを自覚するということはなかなかできることではありません。なぜならば、私たちは少しでも自分の姿をよく見せようとしたり、時には自己弁護したり正当化したりして、自分自身の本当の姿からつい目を背けてしまうからです。しかし、「愚者になる」ことによって開かれてくる生き方があることを、私たちは法然や親鸞の人生から学ぶことができます。法然や親鸞がたくさんの門弟を生み出したのは、そのような生き方と無関係ではありません。自分の愚かさを認めるところから、他者を理解し、人々との深い関わりを持つことが可能となるのです。
- 法然(1133~1212)
- 日本の僧で浄土宗の開祖。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
- 『末燈鈔』
- 親鸞が書いた手紙類をまとめたもの。この言葉は88歳の親鸞が、関東にいる弟子に向けて書いた内容の一節。
『末燈鈔(まっとうしょう ※)』(親鸞)
大谷大学HP「きょうのことば」2012年5月より
教え 2018 12
私たちの暮らしのなかでは、「分別」という言葉をよく耳にします。その場合、分別とは、いろいろ経験を積んで、世間の物事の善悪や道理をよく知っているという意味で使われています。しかし、日頃そのような意味で使われている分別という言葉も、実は仏教語で、仏教の歴史のなかでずっと課題にされてきた大切なテーマを孕(はら)んでいる言葉なのです。
まず、人間は「考えること」を基礎にして生きています。インドでも古くから人間を定義して「考える者」と表現しているくらいです。人はいつも、考えることなしには生きていません。ところが、その、考えることでまた悩んでいるのが人間の事実です。なぜ考えることでまた悩むのか。それは自分と周りが「つながらない」からです。なぜ、つながらないのでしょう。それを問いとして、仏教では考えることの奥底の問題を尋ねていったのです。そして「考えること」の特質を「分別」として見出したのです。
分別の「分」は分断の分、分別の「別」は区別の別。考えるとは、自分と周りを分断し区別して考えること。つまり、考えることには、すでに自分と周りを対立させていく構造が隠されていることが明らかになったのです。しかも分別の奥底には、さらに気づかない形で自我意識がはたらいていて、自分の決め込みを作り出しています。
相手のことを考えているようで、実は自分の考えの押し売り…。しかしそのことに気づきません。
私たちは人間関係に悩みます。悩みも多様です。ところが人間の関係が破綻(はたん)していく根本は、「あなたは解(わか)っていない」「いや、あなたの方こそ解っていない」と言い合う鈍感さ。「あなたのことは私が一番よく理解している」という無理解…。本当に理解し合えるということは、人間に成り立つのでしょうか。本当の理解。それは、自分の思い込みの根深さ、分別の根深さに気づいて、その人にただただ寄り添うことなのかもしれません。
大江 憲成氏
九州大谷短期大学名誉学長
『暮らしのなかの仏教語』(東本願寺出版)より
仏教語 2018 12
「仏教は、都合よく生きられたら幸せだという夢から覚める教えです」という法語があります。私たちは、自分の都合よく生きられることが幸せだと思ってはいないでしょうか。けれども一方では、何か違うようだともきっと感じているはずです。しかし、釈然としないながらも結局は目の前の喜びを達成していこうとする。お金を儲けたり、いい家に住めばそれなりに達成感はありますから、自分をごまかせてしまうのです。
『正信偈(しょうしんげ ※)』の一節では、本当の願いに目覚めるなら、愚かな身のままで安らかな生き方が与えられるのだと言われています。自ら目覚めるのではなく、ハッと私の姿を知らされてうなずく。どうにもならずに行き詰まるとき、自分中心の思いで固められ、長く伸びた、えらそうな鼻が折られるのですね。それが「目覚めた私」だと思います。けれども、残念ながら長続きはしません。またすぐに都合中心の欲望の生活に戻ります。その繰り返しです。しかし、呼びかけを聞いていくことが大事なのです。大事な呼びかけを聞くことで、愚かな私であったとの目覚めの瞬間をいただいていけるのではないでしょうか。それが「ほんとうの私に出遇(あ)う」ことであり、そしてまた、思い描いてきた幸せという夢から覚めていくのです。
- 『正信偈』
- 正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)。真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。
藤谷 真之氏
真宗大谷派 佛念寺住職(山梨県)
真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2018 12
私の中で人を支援するということは、自分の価値を疑うことだと思っています。つまり、自分のあたり前が通用しない人と出会う。朝8時に起きるのがあたり前だと思って暮らしてきた人が、昼夜逆転している人と話す。その人に「昼夜逆転はおかしいだろう」と言っても問題は解決しません。その人がより良く生きるということが目的であって、お説教することが目的ではないのです。
そうすると、その人のあたり前に対して自分が「なんで俺は、これをあたり前と思って生きてきたんだろう」と捉え返すことで、初めて対人支援ができるのです。だから人を支援するというのは、自分を捉え返すということで、その延長線上に成熟した大人のあり方もあるのだと思います。
湯浅 誠(社会活動家)
親鸞フォーラム抄録『sein vol.5』より
著名人 2018 12