仏教を学び始めたばかりの頃、学生時代の友人から「仏教をやって今までの自分と何か変わったか?」と聞かれて、返答に困ったことがありました。なぜなら仏教を学んで生活が快適になったわけでも、理想の自分になれたわけでもなかったからです。むしろ、どうしようもない自分の有り様が見えてきて、苦しいし辛いんだと、私はその時に答えました。
「教えとは鏡である」と善導(ぜんどう ※)大師は言いました。それは自分にとって都合のいいものを映してくれる鏡ではなく、嫌なところ、見たくないところも含めて、自分の存在の事実を知らせてくれる鏡なのでしょう。シモーヌ・ヴェイユという哲学者は、私たちの「実在」について「固くて、ざらざらしている」(『重力と恩寵(おんちょう)』)と表現しましたが、その手触りの悪さこそが、幻想ではない、人間が生きていることの本当の実感なのかもしれません。
私たちは誰だって美しいものに囲まれて、快適に生きていたいと考えます。しかし仏教とは人間を理想に近づける為の教えではありません。自己と和解する―この生き難い現実の中で、罪悪深重(ざいあくじんじゅう ※)、煩悩具足(ぼんのうぐそく ※)であるという人間の事実を教えられながら、それでも目を背けず、自分自身と向き合っていく道であると私は思います。
- 善導(613~681)
- 中国の僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
- 罪悪深重
- 人間が生きていくうえで犯す罪や悪が深く重いこと。ここでいう罪や悪は法を犯すことを指すのではなく、例えば肉や魚の命を食べながら生きていることや嘘をついたりすること。
- 煩悩具足
- 様々な煩悩をすべてそなえて生きていること。
『観経疏(かんぎょうしょ)』善導
花園 一実氏
元親鸞仏教センター研究員
「サンガ」No.135より
教え 2018 08