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「浄土真宗の教えが分かるようになりたい」という心持ちから、いつの間にか私の『歎異抄(たんにしょう)』の学びは、分かるために必要な情報を抽出しようとする在り方になっていたように思う。ところが、『歎異抄』に記されているのは情報ではなく、物語だった。
―「親鸞聖人御物語」。『歎異抄』の序には、そう書かれている。
全(まった)く自見(じけん)の覚悟を以(もっ)て、他力の宗旨(しゅうし)を乱ること莫(な)かれ。仍(よ)って、故親鸞聖人御物語の趣(おもむき)、耳の底に留(とど)まる所、聊(いささ)か之(これ)を註(しる)す。
(『真宗聖典 第二版』767頁〈初版626〉)
「親鸞聖人御物語」といっても、「親鸞聖人は1173(承安3)年に京都で生まれ…」というような聖人の生涯が語られているわけではない。『歎異抄』は、親鸞聖人示寂(じじゃく)の後、20年ほど経ってから、門弟の唯円(ゆいえん)によって著された書だと言われる。親鸞聖人の教えと異なる持論が蔓延(はびこ)っていることを歎いた唯円は、念仏の共同体の回復を願って、耳の底に残る亡き師の言葉―故親鸞聖人の物語られた趣旨を書きつけたのである。
物語と情報はどちらも言葉で何かを伝えるものだが、一つ大きなちがいがある。情報であれば、内容が分かれば改めて聞く必要はない。だが物語はどうだろう。物語は、たとえ内容を知っていたとしても繰り返し聞くことができ、その都度感じ方が変わるものではないか。
たとえば『桃太郎』や『かぐや姫』のような物語は、一度聞いたらもう聞く必要がないというものではない。幼い頃に読み聞かせてもらった時と、大人になって久しぶりに聞いた時、また、子どもに語りかける時とで、感じ方はきっと同じではないはずだ。『歎異抄』に記された言葉も、物語と言われるからには、一度聞いたらそれで終わりというものではないのだろう。
ところで、『歎異抄』には著者による自筆本は残されておらず、いくつかの写本が伝わっている。写本には異同があり、上述の『歎異抄』序の「耳の底に留まる」という箇所は、現存最古の書写本(蓮如(れんにょ ※)上人書写本)では、「耳の底に留むる」となっている。
「留まる」は、親鸞聖人の言葉が自然に唯円の耳の底に残ったという印象を与えるのに対し、「留むる」は、言葉を留めようとした意志が感じられる。しかしいずれにせよ、唯円は、若き日に聞いた言葉を、数十年の星霜(せいそう)を経て書きつけたのである。ならば唯円は、親鸞聖人の物語った言葉を生涯にわたって憶(おも)い起こしていたにちがいない。
分かるようになりたいと願っていた私は、分かればもう聞かなくてよくなるという態度だったのかもしれない。しかし『歎異抄』は、繰り返し聞くべき物語を届ける書だったのだ。
- 蓮如(1415~1499)
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室町時代の浄土真宗の僧侶
『歎異抄』(唯円)
難波 教行氏
真宗大谷派 教学研究所所員
真宗大谷派 淨圓寺(大阪府)
『南御堂』新聞2025年9月号(難波別院)より
教え 2026 01
「成仏(じょうぶつ)」という言葉を、わたしたちはどういう意味で使っているでしょうか。
「あいつもとうとう成仏したか」というと「あの人もとうとう亡くなったか」ということでしょう。『広辞苑』を引くと、「成仏」は「(死ぬと直ちに仏になると考えられたことから)死ぬこと」とあります。
けれども、「成仏」という言葉が直接指し示しているのは、「死ぬこと」ではなく「仏になる」ことです。「成仏」という言葉そのものが、「仏に成る」なのですから。
けれども「仏に成る」と言われてもどういうことかよく分かりませんから、私たちの中では「死ぬこと」という意味にしかならないのでしょう。
でも、だからこそ、いまいちど「仏に成る」ことの意味を考えてみる必要があると思うのです。
Aくん:「元カノ、もう別の人と付き合ってるらしいよ」
Bくん:「あー、それ聞いたら完全に成仏できるわ…(笑)」
「成仏」という言葉は、いまの若者の間では、冗談めかして「諦める」、「満足して終わる」、「気が済む」などの軽い意味で使われているようです。
けれども、「諦める」は本来「あきらかにする」ということです。また、私たちの人生が「満足して終わる」とはどういうことか。本当の意味で「気が済む」とはどういうことなのか。そんな問いをもってこの「成仏」という言葉を考えてみてはどうでしょうか。
近年は葬儀や法事にお参りする若者も減っているようですが、私に先立って成仏された方こそ、本当の意味での「成仏」という言葉に触れる縁を私たちに開いてくれているのではないかと思います。
吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学学長
仏教語 2026 01
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あなたは、「今、生きていますか?」と問われたとしたら、どのように答えますか? おそらく「今、生きていますよ」、とお答えになるのではないでしようか。同時に、「何でそんな当たり前のことを聞くのか?」と疑問をもったり、逆にそんなことを聞いてきた相手を訝(いぶか)しんだりするのではないでしょうか。しかしこの場合、どのような意味で私たちは、「生きている」と言っているのでしょうか。息をしているからでしょうか。心臓が動いているからでしようか。もしかしたら、そんなことすらも考えないほど当たり前のこと、大前提のこととして「今、生きている」と言っているのではないでしょうか。
「今、いのちがあなたを生きている」という言葉には、そのような、私たちが当然だと思っていることに対して、もう一度その意味について、考えてみたり、問い直してみる必要があるのではないか、というメッセージが込められているのです。
以前、新聞のあるコーナーに、次のような投稿が掲載されていました。投稿者のお父さん、お母さんが七十歳を過ぎた頃、二人でお葬式用の写真を撮りに行くと、その帰りがけに、写真屋さんから「お急ぎですか?」と言われてしまったという内容です。
私は、この文を読んでこんな情景を想像しました。お父さんとお母さんは、非常に仲が良く、いつも二人連れだって出かけていたのでしょう。その日も二人で、しかもおしゃれをして写真屋さんに出かけて行ったのに、帰ってきた時にはなんだかしょんぼりしている。どうしたのか聞いてみると、「自分たちが元気なうちに」と思い立って葬儀用の写真を撮りに出かけたのに、写真を撮り終えた後に、写真屋さんから「この写真はお急ぎですか?」と聞かれたことがショックだった、というものです。
これは実に現代を生きる私たちの生活を象徴している話だと思いました。私たちは、誰しもが、よりよく幸せに生きたいと願って、日々生活をしています。自分の思いどおりに、健康で充実した人生を送ることが大切だと思っています。その中には、当然家族に迷惑をかけたくない、歳を取ってくれば、葬儀の準備も前もってしておくことも含まれるのでしよう。葬儀で使う遺影までも、後で周りの人があわてないですむように、しかも元気な時の写真を準備しておく。
私たちは誰でも、自分がいつかは死をむかえることは知っています。知っているからこそ、逆に、今は死んでいない、生きているのだと言えるのでしょう。しかし、それはいつかは死ぬことを知っているだけで、今すぐ死ぬかもしれないということをいつも思っているわけではないのです。ですから、「お急ぎですか?」という言葉は、死を突きつけてくると同時に、死を漠然と遠くにしか捉(とら)えていなかった自分の生活に波紋が広がったのです。
当然のように今生きていると思っている私たちの人生は、実は、準備のために今現在の自分を見つめることを先送りにしている人生ではありませんか、という親鸞聖人からの問いかけが、「今、いのちがあなたを生きている」という言葉に込められているのです。
真宗大谷派 宗祖親鸞聖人
750回御遠忌テーマ
藤原 正寿氏
真宗大谷派 浄秀寺住職(石川県)
『大きい字の法話集2』
(東本願寺出版)より
法話 2026 01
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デジタルで制作する作家も増える中、鈴木さんは紙に絵の具で描いている。『しごとば』シリーズも、現場で写真を撮って、忠実に写生するという。全てのモノと丁寧に向き合い、持ち前の粘り腰と訓練、そして時間と手数をかけて描く。
写真を合成したらいいじゃないかと思われがちですが、以前、写真家の方から「カメラじゃ絶対こういう画は撮れない」と言われたんです。全てのものにピントがばっちり合っているなんて写真ではありえない。ぼくの絵は一個一個、音楽で言ったらモノラルの演奏が全方向からズドンズドンと響いてくるような絵で、「写真にはできない」と言われてうれしかったですね。本当にそういう気持ちで描いているんです。ここにある小さなコップにもきちんとストーリーや役割、良さがあることを何とか絵で表現したいと思っている。だから、そういう局所戦を果てしなく続けていくと、こういう絵になるという感じですね。
この『しごとば』に続けて『しごとへの道』という本を描きました。パン屋さんや新幹線の運転士、獣医師など。構想を進めていくうちに、人の半生を生半可な気持ちでは描けないと思うようになって、改めて取材してその人の人生を深掘りさせてもらいました。すると本人も忘れていた記憶なんかが色々出てきて面白いんです。描かれているのは特別なサクセスストーリーではありません。取材させていただいた方一人ひとりに、それぞれの道があって、当たり前だけど、オンリーワンの人生だってことを描きたくなったんです。
もちろん突拍子もない愉快な絵本もいっぱいある。『大ピンチずかん』はわが子の日常生活の中からヒントを得た。『す~べりだい』や『ぼくのトイレ』や『ぼくのおふろ』など人気シリーズが並ぶ。子どもたちは絵本で、初めて世界と出会っていく。
子どもたちが世の中のあらゆるモノと初めて出会う場面が、ぼくはハッピーであってほしいと思うんですね。だからといって、友情とか愛情とか平和とか、大人がこうあってほしいという理想を並べても、現実はそうじゃないですよね。やっぱり世の中って色んなことがあるけど、見方とか接し方によって楽しくもなるし、深みも出てくる。何かや誰かに興味を持つことで人生の価値が見出されることもあると思うんです。そのスタートラインに立つ子どもたちにはワクワク感みたいなものを持ってほしいと思うんですね。だから、美しい絵よりも、「何これ!?」とか「こんなことやってるの?」みたいな、ちょっとミーハーでいいと思うんです。そういう視点から子どもたちの世界が広がっていく絵本をこれからも描きたいと思っています。
鈴木 のりたけ氏
絵本作家
真宗会館広報誌『サンガ』197号より
著名人 2026 01