2024年弥生(3月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「生死(しょうじ)」は、「輪廻(りんね)」と同義の言葉で、「六道に生まれかわり死にかわり流転(るてん)すること」(『真宗新辞典』)です。「生死」も「輪廻」も「流転」も、私たちが苦しみの境界(きょうがい)をへめぐる迷いのあり方を表現した言葉です。  私たちは、迷おうと思って迷っているわけではありません。誰も、不幸せになりたいと思って生きている人はいません。幸せになりたいという思いで生きています。けれどもそうならないのはなぜでしょう。
 「あの人のせいだ」、あるいは「社会が悪いんだ」。出てくるのは愚痴(ぐち)ばかり。どこまで行っても愚痴で終わっていくしかない。それが、人間としての苦しみ、出口のない迷いのあり方です。
 そのあり方が、「生死の苦海ほとりなし」と、龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ ※)の身を通して教えられているのでしょう。

龍樹
二世紀頃の南インドの僧。大乗仏教の確立に大きな影響を与えた

「高僧和讃」(親鸞)

吉元 信暁(のぶあき)氏
九州大谷短期大学教授
『和讃の響き―親鸞の声(うた)を聞く』(東本願寺出版)より
教え 2024 03

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 「おはようございます」から始まって、「おやすみなさい」まで、一日の暮らしの中でも幾度となく交わされる「挨拶(あいさつ)」。世界では様々な言語がありますが、挨拶の言葉の無いものはないでしょう。人と人の間をつなぐ言葉として挨拶があり、加えて挨拶に伴う動作もあります。私たちは挨拶の言葉とともにおじぎをします。インドでは挨拶の相手に手を合わせます。チベットではペロリと舌を出すそうです。モンゴルではくんくん匂いを嗅ぎ合うそうですし、ニュージーランドでは鼻と鼻をくっつけるようです。これもいろいろあります。握手をするとか、軽くハグするというのもよく見かける挨拶です。

 この「挨拶」という言葉ですが、「挨」は「うつ」「おす」「おしすすめる」「せまる」という意味を表し、「拶」は「せまる」「せめる」「押し返す」という意味です。禅の修行においては「一挨一拶(いちあいいっさつ)」と表され、師が修行者の悟りを見定め、その浅いか深いか、背いていないかをはかる厳しい緊迫した言葉のやり取りと行いを表した言葉が「挨拶」の語源です。
 禅仏教とともに伝わり、現在は修行の場を離れて日常的に使われるようになりました。それで「挨拶程度の付き合い」という社交儀礼的な行為を表すことにもなりました。また、この人には世話になったしこれからも良くしてもらいたいという私たちの心の中のそろばん勘定によって、深々と頭を下げ丁寧に挨拶をしたり、相手を軽く見ている場合は、「やっ」と首をふる程度の挨拶をしたりと、交わす相手によって態度を変えることにもなります。
 こうした私たちの態度が、むしろ「挨拶」という言葉から、厳しく問われているのかもしれません。

四衢 亮(よつつじ あきら)氏
真宗大谷派 不遠寺住職(岐阜県)

仏教語 2024 03

僧侶の法話

言の葉カード

 信國淳(のぶくにあつし ※)先生が、「「浄土」というものは、あってもなくてもよいというような曖昧なものではない。浄土がなくては浄土真宗は成り立たぬ」(『いのちが誰のものか』・樹心社)と語られ、あるいは「「浄土を得て後に初めて我々の人生が、本当に人生らしく光と意味とをもち始める」というのが浄土真宗の立場である」(同書より)と語っておられるように、実は、私たちの人生は、浄土で終わるのではなく浄土から始まるのです。だから、日々の生活の中で、浄土という世界を見出(みいだ)すことによって、はじめて「生まれてきてよかったなあ」と、それこそ「苦労の多い人生であったけれども、尊い、得難い人生を生きることができた」と、喜びと満足の中で自分の人生を完結していくことができるのです。このような人生を、親鸞聖人は「浄土真宗」という言葉で教えてくださいました。そういうことで、「浄土真宗」という言葉を「浄土こそ真宗である」というふうに、間に言葉を補って学んでいきたいと思っています。

 ちなみに、この「真宗」という言葉の「宗」は、中国の天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)が「宗トハ要ナリ」といっていますように、「カナメ」ということなのです。だから、「これがあるから生きていける」「これがなくなったら生きていけない」というような、いのちの中心、支え、拠り所(よりどころ)を「宗」という言葉であらわしているのです。

 私たちが、この世に人間として生まれ、人間として生きる限り、どんなことがあってもこわれない、完全な支え、依り処というものをもたずには生きることができないのです。だから、そのことを意識する意識しないにかかわらず、どんな人も何かを支えにし、何かを依り処にして、現に今、生きているのです。だから人間は、真宗というものをもたずに生きることはできないということが、一番のベースにあるのです。

信國淳
1904~1980。元大谷専修学院院長、大分県來覺寺前住職。

中川 皓三郎氏
帯広大谷短期大学 元学長

『ほんとうに生きるということ』(東本願寺出版)より
法話 2024 03

著名人の言葉

言の葉カード

 大学1年生のとき、初めて海外に出かけアフガニスタンの難民キャンプに行った。そこには世界の貧困を凝縮したような光景があった。道の両側に数え切れない物乞いが座っていた。眼球を二つとも失った少女が「1ルピー、1ルピー」と言って近づいてきた。石井さんはたまらなくそこから逃げた。
 もの書きをめざしていた石井さんは、大学卒業後、もう一度海外へ行って、物を乞う人々と触れ合い、語り合ってみなければならないと思った。20年前のアジアだ。不自由な身で生きる人々の姿は、傲慢(ごうまん)な思い込みや、ありふれた先入観を打ち砕いた。その経験が『物乞う仏陀』というデビュー作となった


 「それまでニュースというものや新聞による報道は100%正しいものだと思い込んでいたんですね。けど、実際は全くそんなことは1%もなくて、新聞で得たものを現場に行って聞くと、全部ひっくりかえされるわけですね。
 例えば、栄養失調でおなかを膨らませている子どもは「かわいそうで死んでいく子ども」ばかりではないのです。栄養失調で生きている子どもって、おなかが膨れながらサッカーをするんですよ。つまり生きていくことに対して前向きでないと、生きていくことができないのです。
 人間が生きるということはそういうことなんですね。その人間の生きることへの力に出会ったときに、ぼくは無条件で感動したんです。そしてその感動をもの書きの人間は伝えるしかないと思ったのです。」

石井 光太氏
作家

真宗会館広報誌『サンガ』181号より
著名人 2024 03