さまざまな仏典(ぶってん)に、「蓮華(れんげ)」は象徴的な形で描かれます。有名なのは『維摩経(ゆいまきょう)』にある、「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥(おでい)に、いまし蓮華を生ず」でしょう。蓮華は、高原の乾いた土地には咲かず、湿った泥の中にこそ咲くものだと。この「泥」とは、凡夫(ぼんぶ)の煩悩(ぼんのう)や、苦しみ多き日常生活にも譬(たと)えられます。蓮華は美しい花ですが、だからと言って、清水に咲くことはできません。あの美しい花を咲かせるためには、汚れた「泥」が必要なのです。蓮華は、たとえ泥の中にあっても腐りません。逆に、この「泥」を栄養分として美しい花を咲かせます。ここに苦しみを転じて、生きる力に変えてしまう仏法(ぶっぽう)の底力が象徴されているのです。
恐らく先人は、蓮華が泥沼に咲くのを見て感動したのでしょう。なぜ、あれほど美しい花が、泥田の中で咲くのだろうと。さらに、美しい花は清い場所で咲くものだという人間の思い込みが破られたのでしょう。これは、単に泥田に咲いている蓮華のことではなく、まさに、私のこころの問題として受け止められたのだと思います。
「泥」と象徴されるものは我が身に起こる煩悩です。親鸞聖人は「煩悩」を「煩は、みをわずらわす。悩は、こころをなやます」(『唯信鈔文意/ゆいしんしょうもんい』)と言われます。怒りや欲望、嫉妬心や鬱屈した思いで、足を掬(すく)われそうになっているのが日常生活でしょう。この「煩悩」に悩まされ、これさえなければ、どんなに心穏やかに生きられるだろうと思いますが、なかなか思うようにはなりません。親鸞聖人以前の仏教は、この「煩悩」を断ち切ろうとしました。「煩悩」を断ち切ろうとする思いは「菩提心(ぼだいしん)」であり、清いこころなのだと。ところが、親鸞聖人は、「煩悩」を断ち切ろうとする思いすら、「煩悩」から起こったこころだから、決して「煩悩」から逃れることはできないと目覚めたのです。そのことに気がついてみたら、「煩悩」は私が起こせるものではなく、私に起こってくるものだと分かったのです。私が起こせると考えるから、それを断ち切ることもできると考えてしまうのです。本当は「私に起こる」ものなのです。なぜ私に起こるのかと言えば、それは阿弥陀(あみだ)さんが力を示すためです。どのような些細な思い(煩悩)であっても、それは阿弥陀さんが引き起こして下さるものなのです。どこにも「私」という力はなく、すべては阿弥陀さんのはからいであったと教えるためなのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2023 07