考えの異なる人と人とが歩み寄るためには、立場を超えて語り合わなければなりません。それは妥協して表面的に仲良くすることでも、互いに依存し合うことでもありません。立場を超える道は、実は何らかの立場をもってしかものが語れないという、私自身の愚かな身の事実に気が付くことにおいて他はないと思います。人間は自分の愚かさに気付いた時に初めて、立場を超えて人と同じ地平に立つことができるのでしょう。
結局私を苦しめて来たのは、自分自身への執着だったのではないでしょうか。それは自分をどこまでも正しいとする闇です。しかも闇にありながら、それを闇として意識できていないことに、私たちの問題があるのでしょう。確かに平穏な時を送っている限り、傲慢(ごうまん)な人間の本性が真実を見る目を覆ってしまいます。むしろ苦悩を伴ってこそ、自分の心が闇であったことに気付かされます。人間が生きる意義を見失って困惑しているのが現代です。そして震災やコロナ禍が、いのちの意味を根底から問い質しました。この厳しい今の社会においてこそ、私たちは悲しむべき自分の相(すがた)に心から向き合うことができるのではないでしょうか。
真っ昼間によく見えない灯火は、闇においてこそまばゆい光を放ちます。闇を闇として捉えて初めて、光に出遇(あ)うことができるのです。ですから闇は決して絶望ではありません。むしろ苦悩するところにこそ、決して見捨てないという仏の願いが息づいているのです。闇の中でいのちを輝かせる光となってはたらくのです。
自分のことしか顧みることのできない愚かな身であることに気付かせ、この悲しむべき存在として生きるしかない者を救わずにはおかないのが、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏様なのだと思います。そして人が自分と同じように、悲しい存在を生きる身であることに思い至れば、人に心を開き、すべての人々と共に歩む道が開かれるのでしょう。この苦悩に満ちた世の中を生きる人間の一人として、仏の呼びかけを聞いていくことに、現代を生きる私たちの依り処があるのではないでしょうか。
茨田 通俊氏
真宗大谷派 願光寺住職(大阪府)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
(一部加筆修正)
法話 2023 01