教えの聞き方について、懇切丁寧に教えて下さったのは本願寺第八代住職蓮如上人(※)ですが、「聴聞を申すも、大略、我がためとおもわず、ややもすれば、法文の一つをもききおぼえて、人にうりごころある」と、聴聞の誤りについて誡(いまし)められた言葉があります。多くの人は仏法(ぶっぽう)を聞いていても、それが自分の人生における根本の問題を解決するためとも思わず、ややもすれば、教えの言葉の一つも聞き覚えて、これを他人に聞かせることで、自分の名誉を高めて利益を得ようという心、即ち名利の心があるとのご注意です。
ある高名な僧侶がお話に行った先で、法話が済んで座敷で休んでいたら、その家の姑がおしぼりを持って入って来て、「本日は本当に結構なお話をありがとうございました。今日のお話は、さぞかし嫁にはこたえたと思います」と挨拶して部屋を出て行くのと入れ違いに、お茶を持って入ってきた嫁が、「ありがとうございました。今日のお話、さぞかしお義母さんの耳には痛かったことと思います」と言ったという笑い話のような話がありますが、あながち作り話とは言えないのではないでしょうか。私たちの聞き方も、いつのまにか我がためにではなく、他人事(ひとごと)になっているのではないでしょうか。
しかも、他人事に聞いている心は、「うりごころ」と蓮如上人がおっしゃったように、物を売って得しようという、功利、即ち自分に利益になることを求める心に他なりません。それはまた、自分にとって都合のいいこと、役に立つことは認め受け入れるけど、都合の悪いこと、役に立たないことは認められない、受け入れられない、否、排除さえしようという心でありましょう。その心で聞く限り、教えは聞こえてきません。
人間の常識から言えば、功利を求める心は、むしろ当然だと思われている心でしょうが、しかし人間は、その心で苦悩しているのではありませんか。
- 蓮如(1415~1499)
- 室町時代の浄土真宗の僧侶
『蓮如上人御一代記聞書』(蓮如)
五辻 文昭氏
真宗大谷派 本浄寺前住職(岐阜県)
ラジオ放送「東本願寺の時間」より
教え 2023 01