私自身、吃音(きつおん)を持っているのですが、「言葉を発する」という行為一つとっても、私たちの体は意識していないところで、すごく複雑なプロセスを自然に行なっているんですね。障害を抱えた人たちにお話を聞いていくと、一人ひとりがまったく違う、そういう言わば「究極のローカルルール」を生きておられるということが分かってきました。例えば視覚障害を持った方と待ち合わせをするときに、駅からの道のりをメールで教えてくれたりするんですが、その書き方が、ちょっとした段差とか、そこだけタイルの材質が違うんだとか、見えている私と全く違うものを目印にされているんです。その方と一緒にいると、同じ町でも、まったく違う場所のように見えてくるようで、すごく面白いんですね。
そもそも自分の体に100%満足している人っていないと思うんです。社会のなかで変えるべきことはまだまだたくさんありますが、それでも究極的にはたまたま与えられたこの身体を引き受けて生きていくしかない。だから障害について考えることは、思い通りにならない自分と向き合っていくことでもあると思うんですね。
障害の有無に関わらず、今は自分を認めることがとても難しい時代ですよね。若い方でも「いいね」の数とか、フォロワー数とかで評価されてしまって、自分を商品のように考えてしまう人も多いんじゃないでしょうか。でもその自分は、世界に一人しかいない。本当は数字に変換できないものだと思うんです。
障害のある人たちと関わっていると、肩を貸したり手を引いたり、身体的な接触が増えるんですね。その時のコミュニケーションって、普段のものと何かが違うんです。いつもは視覚優位で、相手の情報を一方的にキャッチしようとしている。距離をとって、無意識に相手を評価するような態度を取っているんです。でも触覚的なコミュニケーションって、それとは全く違うルールで動いていることに気がついたんです。そこに注目して書いたのが『手の倫理』という本でした。
伊藤 亜紗氏
美学者
真宗会館広報誌『サンガ』178号より
法話 2023 12