僧侶の法話

言の葉カード

 私たちは日常の中で「信じる」という言葉を使うことがあります。宗教的な言葉で言えば「信心」といいます。よく「あの人は信心深い」とお聞きしますが、どういうことかをお聞きすると「よくお寺や神社にお参りされるから」ということだそうです。どこにでも手を合わせることが信じるということだと思っておられるようです。
 親鸞聖人は人間にはまことの心はない、と言われます。そのような人間に、「真実の信心」が起こるはずはない。非常に厳しいお言葉です。

 教えを聞き初めた頃、「そんなことはない、根拠はないけれど、ちゃんと人を信じる心が私にもあるはず」と思っていました。そのことをある先生が、「本当に? 本当にあるんでしょうかね」と問うてくださいました。「人間の心はそんなに確かですかね」と。
 私の心は確かなのかと問われた時、否定しながらもふと、とても確かではない私の姿が浮かびあがりました。日頃の生活の中でも人を信じることはとても大切なことだと思ってはいますが、実は何かあると不安になり信じられなくなることがあります。そんな私にどれほどの“真実”があるのかと考えた時、ハッとしました。
 「教えを信じています」と言いながらも、ただすがりたいだけではないのか。信じるという言葉で自分の疑いをごまかし、迷っていることを認めずに、何を中心としているかもあいまいにしている私は、どこを取っても確かではありませんでした。

 確かだと思っていたことがゆらぎ崩れていく。そんなことを思っていると先生のお言葉が続きました。「人間にはそんなものはないんです。だから念仏をするんです」。そのときは仰っていただいたことがわかりませんでした。けれど、わからないからこそ私はその問いを持って教えを聞き、親鸞聖人のお姿の像、ご真影(しんねい)の前に座らせていただくのです。

犬飼 祐三子氏
真宗大谷派 正林寺坊守(愛知県)

ラジオ放送「東本願寺の時間」より
法話 2023 04