「懺悔」は「さんげ」と読み、もともと仏教語で、「罪過を悔いてゆるしを請うこと」です。しかし明治期に「懺悔」を「ざんげ」と読ませ、「キリスト教で、罪悪を自覚し、これを神の前に悔い改め告白すること」と理解されるようになったようです。してはならないことをし、思ってはならないことを思い、その過ちを神仏の前に告白することが懺悔でしょう。しかし親鸞は自分を、一つも懺悔することのできない存在だと歎きます。罪の告白は尊いことですが、罪を告白している自分に酔い、自己慰撫(じこいぶ)している自分が見えてしまったからです。
親鸞の洞察は鋭いです。罪の告白をすることで、自分の罪を軽くしようとする煩悩(ぼんのう)を発見してしまい、「無慚無愧(むざんむき)のこの身にて まことのこころはなけれども」(「正像末和讃」)と告白します。これは自分で自分の罪を反省し、懺悔しているのではありません。世間では「反省」することが良いことのように言われますが、親鸞は、それこそ傲慢(ごうまん)なこころだと考えています。反省は、罪を犯した自分を罰し、罪のないものになろうとする思い上がりだからです。親鸞は、罪と一体したのです。それで「無慚無愧のこの身」と告白できたのです。
「無慚無愧」とは、自分には懺悔など絶対にできないのだと、阿弥陀(あみだ)さんから教えられた告白です。そう教えてくれたのが阿弥陀さんの悲愛ですから、そこで阿弥陀さんと出遇(あ)ったのです。懺悔ができないということを、阿弥陀さんに向かって懺悔しているのです。実は、この懺悔こそが、阿弥陀さんへの讃嘆なのです。懺悔が出来ないということを、徹底的に教え続けてくれるのが阿弥陀さんですから、阿弥陀さんの教育なしに懺悔は生まれません。それで懺悔は、常に讃嘆と一体なのです。もし一体でなければ、「無慚無愧」は、単なる絶望感に終わるでしょう。一体になっているからこそ、「無慚無愧」が救いの温もりを放ってくるのです。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2022 09