暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 追善とは「死者の冥福を祈るため遺族などが読経・斎会(さいえ)などの善事を行うこと」などと辞書にあります。人類は、動物の中で唯一「追善」を行う生き物です。人間が「追善」をする理由は人間だけが「死」を知っているからです。いままで親しく接してきたひとが目の前から消えていった。それを「死」と呼び、そのひとは死後、いったいどこへ往(い)ったのだろうかという関心を引き起こします。自分には分からないが、「死後」の世界で、故人が安らかでいてほしいという思いから「追善」が行われてきたのでしょう。「追善」は尊いことですが、問題は自分自身の「死」が問われていないことです。これが抜けると仏教にはなりません。

 そもそも私達が知っている「死」とは、二人称、あるいは三人称の死です。つまり、自分と親しい近親者の死か、あるいは自分からは縁の遠いひと、つまり知人や第三者の死です。しかし、いままで知っていると思っていた「死」は、どこまでも他者の死であり、決して自分自身の死ではありません。自分自身が「死」を体験するときには、体験する肉体そのものが停止していますから、「あぁ、これが死ぬということか」と感じ取ることができません。ですから、「死を知っている」という思いには盲点があるのです。他者の死は知ることができても、自分自身の死は「知ることができない」のです。「知ることができない」から、目の前からいなくなった他者を「どこへ往ったのか」と想像するのです。

 実際に接する「死体」は動かないし、冷たいです。そうなると、「死後の世界」もおそらく動かないし、冷たい、さらに孤独で暗い場所ではないかと憶測するのです。それを生者は望みませんから、「死後の世界」で安らかにいてほしいと願い「追善」を行ってきました。
 しかし、なぜ人間は、「死」を「不幸」と決めつけてしまうのでしょうか。それは「生=幸福」・「死=不幸」と考える煩悩(ぼんのう)があるからです。この煩悩の眼鏡をかけて「死者」を見つめるので、「死=不幸」と見えてしまうのです。自分自身が「死」を体験したこともないのに、つまり「本当の死」を知らないのに、他者の死を「不幸」と決めつけている傲慢(ごうまん)さを知らされます。
 〈真宗〉は、その盲点を衝き、自分自身にとって「死」とは何かと問い詰めます。その問題を問うことこそが「追善」を、〈本当の仏事〉として回復するきっかけになるのです。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 03