2022年師走(12月)の言葉

仏教の教えについて

言の葉カード

 「相依(そうえ)」という仏教の言葉があります。あらゆる事物はそれ単独で成り立ち、存在しているのではなく、他と「相(あい)」互いに「依(よ)」り合う、という関係性において成り立っている、という意味です。身近なところで言えば、私という存在は私一人で成り立っているのではなく、必ず誰かの存在があって私でありえ、私もまた誰かの存在を成り立たせている存在である、ということです
 私たちは、物事が自分の思いどおりに進んでいるときは、「私は誰にも助けてもらわず、自分一人の力でここまでやってきた」と考えています。しかし、気づいていないだけで、その順調な私を支えている人たちが必ずいるのです。また、「あんた、若いうち、元気なうちが花やぞ。年とったらなんにもいいことない。なんの役にも立たんし、いてもいなくても一緒や」と言われる年配の方がよくいらっしゃいます。それは切実な思いからの言葉でしょう。しかし、思いどおりにならず、誰にも代わることのできない身を、思いどおりにならないままに引き受けて生きる。その姿がまた誰かの存在を支えることがあるのです。
 『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう ※)』の次の経文が思い起こされます。
その国土に七宝のもろもろの樹、世界に周満せり。(中略)あるいは二宝・三宝、乃至(ないし)、七宝、転(うた)た共に合成(ごうじょう)せるあり。(中略)あるいは宝樹(ほうじゅ)あり、紫金(しこん)を本(もと)とし、白銀(びゃくごん)を茎(くき)とし、瑠璃(るり)を枝とし、水精(すいしょう)を条(こえだ)とし、珊瑚(さんご)を葉とし、碼碯(めのう)を華(はな)とし、硨磲(しゃこ)を実とす。(中略)このもろもろの宝樹、行行(ぎょうぎょう)相値(あいあ)い、茎茎(きょうきょう)相望(あいのぞ)み、枝枝(しし)相準(あいしたが)い、葉葉(ようよう)相(あい)向かい、華華(けけ)相順(あいしたが)い、実実(じつじつ)相当(あいあた)れり。栄色光耀(ようしきこうよう)、勝(あ)げて視るべからず。  浄土には七つの宝でできた樹々があり、その中には七つの宝がそれぞれ幹や華、実として組み合わさって一本の樹となっているものもある。その樹々どうしが相向かって、呼応し関係しあいながら、それぞれに輝きあっている、と説かれています。ここに、「相依存在」としての私たちが表現されているのではないでしょうか。

『仏説無量寿経』
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

『ブッダの教え』

三木 朋哉氏
真宗大谷派 淨福寺住職(岐阜県)
「同朋新聞」2020年11月号(東本願寺出版)より
教え 2022 12

暮らしの中の仏教語

言の葉カード

 現代語の「無縁」は「縁のないこと、関係がないこと」などと、否定的なニュアンスにも使われますが、親鸞は、「無縁、これ大悲(だいひ)なり」と語ります。人間の起こす「慈悲」は「有縁」で条件付きですが、阿弥陀(あみだ)さんの悲愛は、「無縁」、つまり無条件の愛だというのです。人間が家族を愛するのは、「自分の家族」だからであって、「自分の」という条件がなければ、愛情は起こりません。ところが仏さんの愛は「無縁」、つまり「無条件」ですから、「誰でも」を対象としています。「無縁の大悲」は苦悩する私と、無条件に一心同体になり、私を支えてくださる悲愛なのです。

 人間が愛情を起こすには、必ず「間」が必要です。「親と子」や「恋人同士」にも「間」が生まれます。愛するもの同士が愛するあまり、どれほど一体に成ろうと、きつく抱きしめ合っても、決して一体に成ることはできません。そこには必ず「間」が生まれてしまいます。
 ところが阿弥陀さんの悲愛には「間」がありません。「無縁」ということは、「間」がないということです。つまり、私と阿弥陀さんとの「間」を取り去って、一心同体となって私を受け止めてくれるのです。それが「無縁の大悲」と言われる所以です。仏さんは、苦しんでいる者を向こうに置いて、それを救おうとするのではありません。それでは仏さんと、私とに「間」が生まれてしまいます。この「間」を取り去って下さるのが仏さんです。それを『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう ※)』には「群生(ぐんじょう)を荷負(かふ)してこれを重坦(じゅうたん)とす」と書かれています。仏さんは、あなたを重荷として背負い、これを片時も忘れることがないという意味です。

 あなたの身体を見て下さい。これはあなたの所有物ではありません。仏さんのものです。この身体が仏さんですから、私と一心同体なのです。悲しみも苦しみも、私の思いと一心同体になりながら、私の苦しみ悲しみを背負って下さるのです。私の苦しみは、実は、阿弥陀さんの悲しみだったのです。これが阿弥陀さんの救済方法です。

『仏説無量寿経』
浄土真宗で大切にされる経典(お経)の一つ。

武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)

仏教語 2022 12

僧侶の法話

言の葉カード

 現代社会では、死を連想させることは縁起が悪いという了解が強いように感じます。以前にこんなことがありました。年が明けて、あるご門徒さんのお宅にお邪魔するために僧侶の格好で道を歩いていたら、初詣の帰り道らしき若い男女が前から歩いてきました。すれ違った時に喋り声が耳に入ってきました。「正月早々坊さん見てしまった…。縁起が悪い」と。「えーっ」と思いました。しかし、よくよく考えると、現在の日本の社会がお坊さんや仏教というものに対して持っているイメージが如実に表れているなと思ったのです

 本来、生と死はワンセット、紙の裏表みたいなものです。死が嫌だということだけで片方だけ削ってしまえば薄くなるか破れます。いのちでいえば、「生」の厚みや輝きやきらめきがなくなってしまう。生まれた意義や生きる喜びまでもがどんどんと薄くなっていく。そうすると、いのちの尊厳や敬いが失われ、生きる意味を見失ったり、何のために生きているのか、なぜ生きなければならないのかということが分からなくなります。死を軽んじ遠ざけてしまうと、「生きる」ということまで軽くなってしまうのではないかと思います。

 最近は葬儀が非常に簡略化される傾向にあり、新型コロナも影響してそれが一層進んでしまったように感じます。良し悪しは別にして、ひと昔前は葬儀を営む際は多くの人が関わりました。親戚も隣近所も総出でお手伝いをしました。言い換えれば、人がひとり生まれる事も一大事ですが、人がひとり亡くなることも、同じくらい一大事だった。死は決してプライベート(私的)なことではなくパブリック(公的)だったのです。葬儀という営みのなかで、生とは何か死とは何かを皆が感じとっていた。つまり、いのちの重さは、生や死をくぐらなければ実感できないのが私たち人間なのです。
 縁起が悪いというイメージだけで死を遠ざけ見ないようにすることは、その裏表である生もまた、遠ざけ見えにくくしてしまうことになるのでしょう。

海野 真人氏
真宗大谷派 法因寺住職(三重県)

真宗会館「日曜礼拝」より
法話 2022 12

著名人の言葉

言の葉カード

 失敗こそ成功のタネであると言ったり聞いたりします。しかし、エジソンのこの言葉に触れて思うのは、そもそも本当の成功とはいったい何であるのかということ。他人が評価する結果はどうあれ、その過程は自分にとってどうであったのかということのほうが重要だと思えてきます。深さや厚さ、柔らかさなど、人生という物語のなかでは豊かさの尺度は人によって様々なのですから。
 見方を変えると見え方が変わってくるということも人生の味わいでしょう。私たちは、うまくいかない時には「失敗した」と表現して自分以外の人や物に責任転嫁しているだけなのかもしれません。失敗は存在しないのかもしれないと思えるぐらい、それぞれの人生を味わっていきましょう。

トーマス・アルバ・エジソン
発明家・起業家