私たちは、老病死を超える智恵も能力も術も何も持たされないまま、老病死の真っただ中に放り出されてきました。そして、確かな出遇(あ)いを渇望しながらも、自らその出遇いを限りなく壊しつづけて生きています。そしてそこから、私たちの漠然としたつかみどころのない不安と空しさが起こってきているのです。
私たちは、その不安と空しさを誤魔化し、そこから逃げ回ることにかかり果てているのですが、本当はその不安と空しさこそが大事なのでしょう。なぜならば、その不安と空しさの中から、はじめて「私の生き方は本当にこのままでいいのだろうか?」という問いが起こってくるからなのです。そして、その問いは私の上に起こってきたものに違いないのですが、私の問いとは言えない、むしろ私を破って表に出てきた、如来の呼びかけなのです。この問いこそが私たちに仏法(ぶっぽう)を聞かせ、仏道を歩ませてくれるのです。
おなじようなこと くりかえす 日日であるが この日日から
私はいろいろなことを 無尽蔵に学ぶ
(榎本栄一さん/仏教詩人)
黑萩 昌氏
真宗大谷派 法誓寺住職(北海道)
『花すみれ』2018年7月号(大谷婦人会)より
法話 2021 09