現代語の「知識」は「ある事項について知っていること。また、その内容」(『広辞苑』)です。仏教語の「知識」は、情報ではなく「ひと」を表します。特に仏教に縁を結んで下さる導き手のことです。
現代は情報社会と言われるほどに、「知識」が要求されます。この「知識」は、この世をいかに上手く生きるかということには役に立ちます。しかし、この世をなぜ生きるのかという問いには無力です。この問いの意味を開いて下さる導き手に遇(あ)うことが最も大切だと仏教は教えます。
親鸞は「一切梵行(いっさいぼんぎょう)の因、無量なりといえども、善知識(ぜんじしき)を説けばすなわちすでに摂尽(しょうじん)しぬ」(『教行信証/きょうぎょうしんしょう』)と述べています。つまり、「仏教には覚(さと)りをもとめる方法がたくさん説かれているが、善知識という一言を説けば、その中にすべてが摂(おさ)め尽くされているようなものだ」という意味です。
人間は自分の思い込みで物事を考えてしまう傾向が強いです。この思い込みの眼で仏書を読んでも、自分の思い込みの知識でしか答えを得られません。この思い込みの眼を外部から批判して下さるのが「善知識」です。「善知識」が大切だというのは、それほどまでに人間は思い込みの強い生き物だということを表しているのでしょう。もし親鸞が、師の法然上人に出遇うことがなければ、〈真宗〉は開示されませんでした。そうすると私が今日、「真宗門徒」になることもできませんでした。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2021 10