僧侶の法話

言の葉カード

 現代の社会では「非常識」であることや、「異なり」というものは認められないのです。どうやら私たちの社会では「同化」が優先されるようです。では、どうしたら本当に「異なり」を認めつつ共に生きることができるのか。これは肯定論では駄目なのです。一度自分の思いが破られ、しかも破られるがゆえに出遇(あ)える世界に出遇っていくという経験をしないと成立しないのです。
 ところが、私たちは肯定論を積み重ねて常に成功し続けるというかたちでしか、成長を経験することができなくなっています。そしてその成功の積み重ねを価値だと思い込んでいます。ですから今は、小学校で失敗しない、中学で失敗しない、高校で失敗しない、大学受験で失敗しない、就職で失敗しない、職場の中で失敗しない、あらゆることに失敗なく成功してきた人たちが、やがて社会の頂点に立っていくわけです。途中で一度でも躓(つまず)けば、もう道から外れていってしまうのです。最後まで生き残るのは、一度も失敗しなかった人だけです。しかし、そうした人たちが本当に幸福なのかといえば、少しばかり疑問を抱きます。

 社会が貧しい頃には、互いに助け合うことが当たり前でした。しかし、経済力がついてくると、持てる者と持てない者との格差が激しくなり、既得の価値を囲い込むようになります。「勝ち組」「負け組」などという言葉が、無批判に用いられるようになった頃から、勝った者は、苦悩する人間を救う大きな世界に触れることなく負けた者を排除して、狭い世界の倫理や価値を超えることができなくなっています。
 ですから、私たちはどこかで自らの思いが破られ、そして破られることによって、自己を超えた広大無辺(こうだいむへん)な世界に出遇っていくチャンスを持たなければいけないのです。そういう破られるチャンスに、もっと自由でいていいのだと、私たちは教育現場で学生たちに伝えなければならないと思います。「平気だよ、どんなに失敗したってあなたたちにはちゃんと出遇えるものがあるんだよ」「そのほうが大きな出遇いに繋がっているんだよ」と、自由に失敗できるチャンスを与えていくことが私たちの大切な役割ではないかと思います。
 破られる者であることにおびえる必要はありません。それは人間の赤裸々な姿に過ぎないのですから。善人であることも誇る必要はありません。それは人間の常識による善に過ぎないのですから。

浅野 玄誠氏
同朋大学 元学長

『非常識のススメ』(東本願寺出版)より
法話 2021 06