「私はそれほどできた人間ではない」。
そう思っていられるのは自分のこころに余裕があるときだけで、駄目な自分を認めたくないときが必ずきます。そんな自分を素直に認めればいいのに、それができません。素直になるどころか、力のなさをごまかせるだけの何か「確かなもの」を求めてしまうのです。それが正義なのかもしれません。正義は厄介です。正義に立つと、自分がまるで万能な存在のように見えてきます。私は正しいのだから、みんなは私を責めるわけにはいかないはずだと、自分の至らなさや冷酷さに目が向かなくなります。どうしようもない自分をほったらかしにして、「私は正しいのだ!」と粋がって。そして、恥ずかしげもなく他を責めるのです。やがてそこに争いが起こります。
ある先輩に、「人間は正しいという所に立ったとき、その人の持つ最もいやらしい面が出る」と教わりました。さらに悪いことには、そんな嫌な自分に気づかないのだと。なぜなら自分は正しいと思っているから―。幾度、この言葉を思い出したことか。
大切な先生に教えられました。「正しいという字は一の下に止まると書く。自己を正すということは、これでいいのかと一度立ち止まることだ」と。
それが合掌の姿なのでしょう。
乾 文雄氏
大谷中・高等学校講師
月刊『同朋』2016年1月号(東本願寺出版)より
法話 2021 07