普段の会話で、「ここが正念場だ」などと使います。辞書には「歌舞伎等で、主人公がその役の性根(しょうこん)を発揮させる最も重要な場面」、また「ここぞという大事な場面・局面」などとあります。仏教語としての「正念」には、「信心の正しくさだまること」などの意味があります。さて自分にとって、人生の「正念場」はどこにあるのでしょうか。そう問われると、この人生こそが、この世に生まれたことの意味を問う、一回限りの「正念場」だと教えられます。
「正念場」と言うと、人生のどこかに大事な決断の場面があるように思われがちですが、そうではないようです。奇跡的に、この世に生まれた「人生全体」の意味を問うことこそが、仏法における「正念場」です。
人類は、人生の終点を知ってしまいました。それは「死」です。「死」をもって終わる人生に意味があるのでしょうか。そこに仏法(ぶっぽう)は楔(くさび)を打ちます。「あなたの知っている『死』は本当の『死』なのか」と。確かに私たちが知っている「死」は、「二人称の死」であり、「三人称の死」です。決して「一人称の死」を体験できませんから、「本当の死」は知りません。「本当の死」を知らないのに、「死」を分かったことにして考えている傲慢(ごうまん)さを仏法は批判します。そうやって「死」への固定観念を解体し続けて下さるはたらきこそが、仏法の底力です。
武田 定光氏
真宗大谷派 因速寺住職(東京都)
仏教語 2021 02