「死者」という問題を考えるにあたって、私の友人の死があります。彼は出版社の編集者でもありました。その彼が40代で突然亡くなった。とても大切な人だったので、なかなかその穴が埋められず、上の空という状態が続いていたんです。
ある日の深夜、翌朝までにどうしても仕上げないといけない原稿があり、しかしながら翌朝も学校の授業で朝が早い。とても恥ずかしい話ですが、まいったなと思いながらざっと書き飛ばしてしまった。早く寝ようと思って、メールの送信ボタンをぽっと押そうとしたんです。しかし、指が止まって押せなかった。どうしてかというと、1カ月前に亡くなった彼に見られているという感覚があったんです。霊的な話ではなく、何かのまなざしをふっと感じたんです。そうして原稿を見直すと、本当につまらない原稿だった。せっかく新聞記事の場所をもらっているのにと思い返し、そこから書き直したんです。
結局朝方まで時間を要してしまったんですが、作業に要した時間を振り返り思ったのが「ああ、そういうことか」と。僕は彼と出あい直したんだと思ったんです。どういうことかというと、生きている時にこういうことはなかった。その彼とは、深夜まで一緒に深酒をしたり、その後にラーメンを食べながらばか話をしたり。けれども次の日には覚えていないという、そういう付き合いをしていた友人なんです。けれども彼は、亡くなってはいるけれど僕にふっと、倫理的なまなざしを投げ掛けてくる。「それでいいのか」と。そして僕は原稿を書き直した。
その時に、彼は死者となって存在しているんだと思えた。いなくなってしまったという空洞に私はずっと苦しんでいたんですが、死者となって存在しているその彼と一緒に生きていけばいいと思ったんです。彼との対話というのは、言葉にならない次元の言葉で何か対話をしている。そういう関係があるんだとしたら、彼はいなくなってはいないと。私なりにすとんと落ちて、自分なりに納得ができた。二人称の死というのはつらいです。しかし、その人たちと一緒に生きていくという、「出あい直し」という場面が必ず来る。
「死者と共に生きていく」というのは、私は非常に重要なことなんじゃないか。そして、死者という存在を忘れた世界というのは、とても危ない世界なんじゃないのかと思っています。私たちは不完全な人間です。自分たちが一番高みに立っていると思ってしまえば、おごり高ぶり、何でもかんでも自分たちの都合でやってしまう。それをしっかりといさめる存在でもあるのが、私にとって「死者」という問題であり、同時に仏教の役割だと思うんです。
中島 岳志氏
政治学者
第14回「親鸞フォーラム」より
著名人 2020 03